平安京が出来た時代、京都の始まりの路は、現在では京都御苑の西から西大路までの2.5キロの一条通りであった。この平安京の北端の路は、都の内と外を隔てる境界線でもあったが、百鬼夜行の通り道としても、今に語り伝えられている。中でも堀川に架かる一条戻り橋付近には、多くの伝説が伝えられている。単なる一条橋ではなく「戻り橋」の名が付いたのは、陰陽師で有名な安部清明が生まれたとされる平安時代中期の921年から3年遡る918年の頃と言われる。

後年に藤原純友と共に、承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を起こした平将門へ、怨敵調伏の秘法を用いて、藤原秀郷に、将門の首を取らせた等の数々の説を持つ天台宗の僧浄蔵が修行のために熊野へ向かう途中、父の三善清行が危篤に陥ったという知らせを受ける。急ぎ京に戻ったが、すでに父は死んでおり、浄蔵が目にしたのは父の葬列が堀川に架かる一条橋を通過しているところであった。浄蔵が棺にすがり神仏に祈ったところ、棺が内側から開き、父と最後の対面を果たしたという。別の説として、三善清行が生き返ったという説もあるが、それ以来この橋は死者が現世に戻る「戻り橋」と、誰が呼ぶこともなく、そう呼ばれるようになったという。

また平安時代末期に記された今昔物語では、大晦日の夜に一条堀川の橋(一条戻橋)を渡っていた侍が、灯を持った鬼の集団に出会い、人から見えない透明人間に変えられてしまう話や、「宇治拾遺物語」には、一条大路の建物に女性と泊まった男性が夜、馬の顔をした大きな鬼に出くわす話が出てくる。

更に室町時代に記された「付喪神記」では、捨てられた古道具たちが人間に仕返しするため付喪神(つくもがみ)となって変身し、祭礼で一条大路を東へ行列する話し等が登場している。付喪神とは我が国の民間信仰の概念で、長い年月を経て古くなったり、或は長く使われた物に、神や霊魂等が宿るとされる考え方である。今様に言うならば「もったいないおばけ」とでも言えようか。少し余談になるが、環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性、ワンガリ・マータイさんが、MOTTAINAI」という言葉を世界に広めたが、京都国立博物館に保管されている「百鬼夜行絵巻」には、一条大路を行く傘や木づち、楽器、鍋などが化けたユーモラスな妖怪が登場している。MOTTAINAIという言葉が世界に発信される遥か昔から、簡単に捨て去られる物や、忘れ去られる物に対しての慈しみへのメッセージがこのような伝説の中にあったことが驚かされる。

西大路通りから中立売通りにかけての一条通りに、大将軍商店街と呼ばれる商店街がある。この地域は昔から大将軍と呼ばれてきたが、名前の由来は、商店街の中ほどにある大将軍八神社からきている。この神社は、方位が内理の北西角にあたるが、桓武天皇が陰陽道に基づいて、王城の鎮護と方除厄除の目的で、都の四方に大将軍の祠を配したそのひとつである。この商店街では、百鬼夜行の路とされた一条通りに因み「妖怪ストリート」という打ち出してしている。

各店舗の店先には、「百鬼夜行絵巻」に登場する妖怪たちが、それぞれの嗜好をめぐらせて、来店者を迎えてくれている。伝説の中に出てくるおどろおどろしい妖怪ではないが、どこかユーモラスで、近くに行かれた方には、立ち寄られるのがお勧めである。


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西大路通り(にしおおじどおり)は、北は北大路通りから、南は十条通りまでの路である。平安京造成時は野路小路と呼ばれた小路であった。北の基点にあたる北大路付近には、黄金の造りで有名な金閣寺がある。正式には北山鹿苑寺(ほくざんろくおんじ)という臨済宗相国寺派の寺院である。室町幕府三代将軍・足利義満が、公家・西園寺家の所領であった西園寺を、河内の国の領地と交換に手に入れ、改築と新築によって一新したものである。それ以来ここは北山殿と呼ばれ、義満は将軍職を子の義持に譲ってからもこの北山山荘で実権を握り続け、政治の中枢機能が集約された時期が長らく続いた。義満亡き後、妻であった北山院・日野康子の御所となるが、北山院が亡くなると臨済宗の禅寺として寄贈され、義満の法号である「鹿苑院」に因んで鹿苑寺となった。応仁の乱では西軍の陣となり、多くの建物が焼失したが、舎利殿を始め主要な建物が再建された。

時の変遷を経て昭和25(1950)72日の未明に舎利殿から出火した炎は、黄金に輝いていた金閣を焼き尽くした。世に言う金閣寺放火事件である。普段、火の気のないところから不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べたところ、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(京都府舞鶴市出身・当時21歳)がいないことが判明し、行方を捜索した。同日の夕方に金閣寺の裏にある左大文字山の山中で薬物を飲み切腹してうずくまっていた林を発見し、放火の容疑で逮捕した。

この事件は、社会に大きな影響を与え、この事件を題材にした小説が三島由紀夫の代表作となった「金閣寺」と、水上勉の「五番町夕霧楼」である。三島は小説の中で、金閣に対する美と憧れと、それに相反する反感が放火に至らしめたという「滅亡するからこそ美は成り立つ」という、三島独特の美的概念でこの事件を分析した。一方水上勉は、日本海の樽泊の貧農に生まれ、五番町遊郭で暮らす娼妓・夕子と、夕子のもとへ通う吃音の修行僧学生との悲しい恋を伏線にすることで、社会への憤りを描いた。現在も事件の真相は解き明かされてはいないが、林が服役中に、妄想や幻覚などを伴う「総合失調症」の進行がみられたことから、これが犯行の要因ではないかとされている。また林の母親は、事件後事情聴取のため京都府警から呼び出されるが、実家の在る福知山市への帰路、山陰線の亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。林も昭和3137日に服役中に26歳の若さで病死した。哀しくもやるせない、顛末の事件であった。


 

 金閣寺参道前から路を南に300メートル程行くと、東側に大きな神社がある。平野神社である。この神社は桓武天皇の平安京遷都に伴い、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。平安時代から安土桃山時代にかけての歴代の天皇が行幸し、国家的には重要な意味を持つ神社であったようだ。またこの神社は平安時代から桜の名所とされ、「源氏物語」でも紫の上が、色々な桜を楽しんだことが記述されている。現在では京都市内の桜の名所のひとつとして、シーズンともなれば境内に桟敷が設けられ、特に「平野の夜桜」として、ぼんぼり提灯の灯りに映える桜は大変美しいことで有名である。





御前通り(おんまえどおり)は、北は北大路通りから南は札ノ辻通りまでの路である。平安京造成時の西大宮通りにあたり、現在の御前通りは幅員が10メートル余りであるが、平安時代には、大内理の西側を走る幅員24メートルの大路であったという。またこの路の中央を西大宮川が流れていたといわれている。西大宮川は現在の紙屋川と思われ、平安時代には鴨川と西大宮川の間には、さらに東京極川、小川、大宮川、耳敏川、西大宮川が流れていたことが発掘調査で判明している。この路筋は、平安京の治安をあずかる人々が住む官衛町(かんがまち)であったと伝わっている。



 この路の基点付近には北野神社が在るが、この神社が創建される十世紀以前までは、このあたりは「北野の森」と呼ばれ、一帯が広大な牧場として馬や牛が飼育され、「乳牛院」というミルク工場まで存在していたといわれている。

この北野天満宮は、平安時代初期の学者であり貴族であった菅原道真が、無実の罪とされる流罪により、配流先の大宰府で没した後の天暦元年(947)、時の朝廷により道真を祀る社殿を造ったのが始まりとされている。後年には詩歌、学問に優れた道真の人物像から、学問の神様として、現在も敬われている。
境内の神殿の近くに「北野大茶会之址」と記された大きな碑が立っている。豊臣秀吉が大茶会を催したことを記念して立てられたものである。北野大茶会(きたのだいさのえ)は、天正15(1587)101日に、関白太政大臣であった豊臣秀吉により催された、大規模な茶会であった。元々の目的は、秀吉自らの権威を示すものであったが、もうひとつには特権階級だけに普及していた茶道を、等しく民衆の中にも持ち込もうとしたようにも思われる。

 各地に立てられた大茶会の札書きには「若党、町人、百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、呑物一つ、茶道具が無い物は替わりになる物でもいい」と記されていたといわれ、その一方で「こうした配慮にも関わらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない」とのことも併記されていたと伝わる。

 その意味では、茶道の普及にかこつけて、自らの権威を示すことに重点を置かれたようである。茶会は北野神社の拝殿を三つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込み、秀吉自慢の茶器を陳列した。また茶菓には「麩の焼き」と呼ばれた麩焼き煎餅や、煎った黒豆に大豆粉を幾重にも重ね、青のりをかけた「真盛豆」と呼ばれる菓子を供した。真盛豆は、北大路新町に在る竹濱義春老舗で現在も製造されている。また野点も行なわれ、来会者は身分を問わず公平に籤引きにより各席35人ずつ招き入れられ、名物を用いて茶を供したと伝わっている。