塩小路通り(しおこうじどおり)は、京都駅の正面に位置する路である。平安京の頃は、現在この路より一筋北に位置し、東洞院通りから大宮まで通じている木津屋橋通りが塩小路通りであった。江戸時代初期に書かれた「京雀」では「この筋も東は田畠にて町家なし。大宮以西町家なし」と記され、寂しい路であったことを伝えている。塩小路の名前の由来は、平安時代、源氏物語の主人公、光源氏のモデルとも言われている嵯峨源氏の左大臣の源融(みなもとのとおる)の屋敷であった河原院に塩を持ち込むため、難波(大坂)から海水を運ばせ、このあたりで塩を焼いたことから付いたとされている。当時、毎月一升瓶にして二千本も運ばせたというから、相当な量であったことがうかがえる。

 現在の塩小路通りには、高さ131メートルの「京都タワー」を有する京都タワーホテルや、京都センチュリーホテル、ルネサンス調の京都新阪急ホテル等のホテル群。また関西電力ビルや京都中央郵便局、下京区役所等があり、京都を代表するターミナルのひとつになっている。特に「京都タワー」は、建設が計画として持ち上がったときから、京都市民の間でも「京都の景観を壊す、壊さない」の賛否両論があり、議論が白熱した。建設からおよそ40年を経た現在、よい意味でも悪い意味でも、京都の代表的なランドマークのひとつになっていることは確かである。

 京都駅前を少し西に行くと東洞院通と交差する南西角に高さ1,5メートル、幅0,7メートル程の大きな石碑が立っている。この碑は、日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線が明治28(1895)年に開業し、この地を起点として伏見町下油掛までの約6kmを走ったことを記念したものである。石碑の一番上に「電気鉄道事業発祥地」と大きく記された、その下に当時の電車の絵が描かれ、更にその下には次のように記されている。少し長いが紹介する。「日本で始めての電気鉄道はこの地で発祥した。即ち明治二十八年二月一日京都電気鉄道株式会社は、東洞院通り七条下る鉄道踏切南側から伏見下油掛通りまで六キロの間に軌道を敷き電車の運転を始めた。この成功を機として我が国電気鉄道事業は漸次全国に広がり、今日の新幹線電車にまで発展することになったのである。よってこの八十周年にあたり先人の偉業を讃えてこの記念碑を建てる。日本国有鉄道 京都市交通局 関西電力株式会社 阪急電鉄株式会社 京阪電気鉄道株式会社 近畿日本鉄道株式会社 阪神電気鉄道株式会社 南海電気鉄道株式会社 京福電気鉄道株式会社 鉄道友の会京都支部 昭和五十年二月一日」と、関西地方の全ての電鉄会社が名を連ね、電気鉄道の歴史が関西地方の一角である、この京都から発したことを高らかに宣している。

 七条通り(ななじょうとおり)は、東は東大路通りから、西は葛大路通りまでの路である。平安京造成時の七条大路にあたる。東の基点となる七条東大路には真言宗智山派智積院がある。この寺は紀州根来山大伝法院の塔頭であり、宗派における学問所の役割を果たしていた。根来山大伝法院は、現在の和歌山県岩出市に所在し、室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2700とも)、寺領72万石を数え、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余の一大軍事集団を擁した大宗教都市を形成していた。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧衆による鉄砲隊が作られた。中世に入り根来山大伝法院は紀伊のみならず、河内や和泉にもその勢力を及ぼしていたが、時の権力者秀吉はそれを認めず、そして天正13(1585)の根来攻めで全山消失した。当時、智積院の住職であった玄宥(ぎょうしょう)は、根来攻めの始まる前に寺を出、高野山に逃れた。関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院は復興した。伽藍は東大路通りと七条通りのT字路に面して総門(東福門院の旧殿の門を移築したもの)が建ち、その先には講堂(平成7年、1995年、300年ぶりに再建)、大書院、宸殿などが建つ。大書院は桃山城の遺構といわれる。大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。この他にもこの周辺には一千一体の観音像を奉る三十三間堂や、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城攻防戦で鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井とした「血天井」で有名な養源院がある他、秀吉がわらじを脱いで一服したことに由来する店名で、400年の歴史持つ鰻雑炊の「わらじや」は、谷崎潤一郎等の文人が数多く訪れたといわれ、悠然とのれんを垂れている。

 七条通りの道筋には平安京において朱雀大路を挟んで左京と右京に官営の東市、西市が置かれた。東市は現在の東本願寺あたり、西市は京都市中央卸売市場付近である。平安京では、このふたつの官営市場の他には市は認められていなかった。これは一見合理的に思えるが、市が南の方に設けられたため、平安京の北の端に住む住民にとっては、買い物はほとんど一日がかりの大仕事であった。しかも東西の市のうち、一月のうち前半の半月は東市が、後半の半月は西市が交代で営業するように定められていた。さらにややこしいことに、東市と西市では扱う商品の種類が違っていた。布・麦・木綿・木器・馬など五十一種は東市の、土器・牛・綿・絹・麻・味噌など三十三種は西市の専売品とされ、両市共通品目は米・塩・針・魚・油など十七種にすぎなかったのである。さすがにこのよう不合理な規制は実状にあわなかったと見えて、振り売りの行商人がこの隙間を埋めていくことになり、また東西市以外の場所にも商店街が登場することになる。現在、東西のいずれの市も面影を残していない。

 正面通り(しょうめんとおり)は、東は大和大路通りから西は千本通りまでの路である。今では正面の意味が解り難いが、東山の方広寺大仏殿に対しての正面という意味である。この路は平安京造成時には七条坊門小路と呼ばれていた。方広寺大仏殿は昭和48年の火災で焼失するが、この寺には豊臣家滅亡の原因とも言われている「方広寺鐘銘事件」の梵鐘が残されている。この事件は慶長19年(1614年)、豊臣家が再建していた方広寺大仏殿はほぼ完成し、4月には梵鐘が完成した。総奉行の片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓に選定させた。梵鐘の銘文は「国家安康 君臣豊楽」というものであったが、徳川家康はこの文字の中で自らの名前を分断し、豊臣家の繁栄を願い、徳川家への呪詛が込められていると断定した。この事件は豊臣家を攻撃するための口実であるが、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたとも言える。

 正面通りを西に50メートルほど行くと、小高い墳丘が作られ五輪塔が立っている。これは耳塚と呼ばれるものである。豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、討ち取った朝鮮・明国の兵の鼻や耳をそいで持ち帰ったものを葬った塚である。この当時は戦功の証として、敵の高級将校は首をとって検分したが、足軽などの軽卒は耳や鼻でその数を証した。これをしないのを打ち捨てといった。朝鮮からの運搬中の腐敗を防ぐために、塩漬けにして持ち帰ったと伝わっている。検分後は戦没者として、その災禍を防ぐ意味も含め丁重に供養した。豊国神社の境内には「馬塚」もあり、これらを含め東山地域の秀吉の遺跡になっている。

 路を西に行くと鴨川に出会うが、川の東岸に沿う川端通りを少し北に上がったところに、「元和キリシタン殉教の地」と記された1?ほどの高さの碑が立っている。元和年間に、この地においてキリシタン信徒が殉教した。江戸幕府のキリシタン弾圧は、慶長17(1612)年に始まり、翌年には京都にも波及し、大坂冬の陣(1614)が起こるまで続いた。二回目の弾圧は、元和年間(161523)に始まり、元和5(1619)年、秀忠(15791632)上洛に際し、ますます厳しくなった。秀忠は伏見でキリシタン投獄者のことを知り、老若男女の区別なく火あぶりの刑を命じ、52人が大八車に積み込まれ、六条河原で悲惨な最期を遂げた。殉教した52人のなかには13才以下の子供が11人も含まれていたという。これ以後京都ではキリシタンが歴史の表舞台に登場することはなかった。この碑はキリシタン殉教の跡である六条河原を示すものである。

 路を更に西に行くと東本願寺の飛地である渉成園に出会う。周囲に枳殻(カラタチ)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも通称される。園の西は間之町通、東は河原町通、北は上珠数屋町通、南は下珠数屋町通に接していて、200?のほぼ正四角形で面積3.4haの広さである。嵯峨天皇の皇子左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)の遺蹟と伝えられる。その後、1641(寛永18)年、徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在の地が寄進され、さらに、1653(承応2)年、第13代・宣如上人の願いによって石川丈山が作庭したのが渉成園のはじまりと伝わる。 東山を借景とする池泉回遊式庭園である渉成園は、広大な印月池を中心に池畔の繁みに茶室などの建物が点在し、池には鴨、白鷺などの鳥が舞い降り、街中とは思えぬ風景を作っている。「渉成園十三景」は、文政10(1827)に訪れた頼山陽(らいさんよう)が見立てたものという。江戸時代の後期になると、渉成園へは「御庭拝見」と称し多くの文人・俳人・茶人らが訪れている。また幕末期には徳川十四代将軍・家茂、十五代将軍・慶喜をはじめ幕府要人も何度となく訪れている他、茶道・裏千家の茶会も催されたという。園内は桜や楓の木が多く、四季折々の風景が楽しめる。しかし近年は、背景の東山に変わり高層建築の頭が見え隠れして、景観が損なわれるとの懸念が生じている。


 渉成園で一端途絶えた路は、間之町通りから再びはじまる。歩を西にとりしばらく進むと東本願寺に突き当たる。東本願寺は真宗大谷派の本山で、正式名称は真宗本廟という。同派の宗憲には、「真宗本廟は、宗祖聖人の真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とする聖域であって、本願寺とも称し、本派の崇敬の中心、教法宣布の根本道場である」と規定されている。堀川七条に所在する西本願寺(正式名称 本願寺)の東に位置するため、東本願寺と通称されていて、京都の人々は「お東さん」或は「お東」と呼ぶ場合が多い。本願寺が東西に分かれた経緯は、「六条通り」の項で述べたので触れない。東本願寺は江戸期より多くの火災に遭っており、現在の建築物の多くは、幕末に勃発した「禁門の変」の際の「どんど焼け」の明治期に造られたものだが、建築・障壁画等は当時の技術の粋を集めたといわれている。