花屋町通り(はなやちょうとおり)は、東は富小路から西は天神川通りまでの路である。この路は西本願寺の前では、一筋南を平行して走る正面通りと並んで花屋町通りと旧花屋町通りの二つに分かれる。また新町通りから堀川通りの間では、もともとの本通りは旧花屋町通りになるが、のちに戦時中の疎開で拡張されて一本の路になったようだ。明治半ばに郷土史家である碓井小三郎氏により書かれた「京都坊目誌」によると、通りの名の由来は「花を売る店が多かった」からだと記されている。東本願寺付近から西本願寺付近にかけての路の両側には、場所柄から数珠屋さんから法衣屋さん仏壇屋さん、或は仏教書出版などの仏具関係の老舗店舗が軒を連ねていて、本願寺の門前町の体を成している。堀川通りに面しては、西本願寺の「振袖門」があるが、かつては南に七条門、北に天狗門の総門が建ち並んでいたが、現在はこの振袖門のみが残る。

 花屋町通り堀川の西本願寺境内の角付近に「太鼓堂」と呼ばれる建物がある。かつて春秋のお彼岸は、西本願寺の対鼓動のドンで明けた。午後6時勤行に打たれるご晨朝(じんじょう)の太鼓を合図に、居並ぶ仏具店の前には多くの団体客で埋まったといわれる。信仰に篤い門徒衆が自分の仏具だけでなく、国許への土産に仏具を買い求めたという。太鼓堂は幕末には一時期、新撰組の屯所にもなった。新撰組は池田屋騒動以降隊士が増え、壬生の屯所が手狭になったこともあり、慶応元年(1865)屯所を壬生から西本願寺に移し、「新撰組本陣」の看板を掲げ、北東にあった北集会所とこの太鼓堂を使用した。一方で西本願寺は、長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動のなかで幕府と対立していた長州藩士たちは、何かにつけて西本願寺を頼りにしていた。その由来は戦国時代に織田信長勢と石山本願寺との間に勃発した石山合戦において、毛利家が本願寺に食料を届けてくれた恩義に報いる為であるという。それらの歴史的な背景を察した新選組は、西本願寺のなかに本拠を移すことにより、長州を始めとする勤皇派の情報収集も行える一石二烏の効果をねらったものと思われる。当時の新撰組は、境内で大砲を轟かせ実弾射撃をおこなう等、すこぶる乱暴を繰り返したため、参拝の門信徒や僧侶らを震撼させたと伝わっている。

 府道38号線、通称鞍馬街道を北に行くと、鴨川の源流のひとつである鞍馬川と貴船川が合する地点近くで道が分かれる。道なりに進めば鞍馬に達し、左に行けば貴船に至る。叡山電鉄鞍馬線で出町柳から乗車しても30分程度で貴船の入り口の駅である貴船口に達する。
洛北の名所貴船・鞍馬は、秋の紅葉で名を馳せているが、四季折々に見る自然の表情は、何時来ても心を和ませてくれる。

 貴船川に沿った左の道を進んで行くと、やがて料理旅館が立ち並ぶ貴船に至る。夏には貴船川のせせらぎを聞きながら、川魚料理等が楽しめる川床が有名である。貴船の川床の歴史は,

鴨川の川床に比べると新しく、大正時代に入って暑さしのぎに茶屋が川に川机を置いたのが起こりである。現在のように料理を楽しむ形式はまだなく、川に足をつけて涼むだけのものであった。それからしばらく後、昭和5年に叡山電鉄が鞍馬まで開通すると、貴船を訪れる人も増加し、鞍馬山詣での帰り客等を当て込んで、各店が競って川床を出し始めた。昨今は京都の中心部への送迎バスを出し、冬の時期には近辺の山々に出没する猪を用いた「牡丹鍋」等を供する料理旅館が増え、四季を通じて活況を呈している。

 道をさらに進むと貴船神社付近でさらに道は細くなり、車一台の離合が困難なほどになる。この貴船神社の創建の年代は不詳であるが、社伝では反正天皇(はんぜいてんのう)西暦336年の時代と伝えられ、古事記にも登場する水神である淤加美神(おかみのかみ)を祀り、古くから祈雨の神として信仰された。古来より晴れを願うときは白馬を、雨を願うときには黒馬が奉納されていたが、実際の馬に代わって木の板に描いた馬が奉納されたこともあり、これが絵馬の発祥と言われている。また縁結びの神としての信仰もあり、平安時代の女流歌人、和泉式部も夫の心変わりに悩んで貴船神社に祈願をし、夫婦仲がもとのように円満戻ったとの逸話も残っている。そのためか、昨今は若いカップルや女性で賑わっている。その一方で縁切りの神、呪詛神としても信仰されていて、丑の刻参り(うしのこくまいり)でも有名である。この神社の「水占い」は、紙を水に浸すことで始めて文字が浮かんでくることから、若い人の遊び感覚にマッチして好評のようだ。この付近から鞍馬山に登ることも出来るが、多くの参詣者やハイカーは鞍馬から鞍馬山を登り貴船に達するのがスタンダードなコースである。

 道を鞍馬街道に戻り、そのまま進むとほどなく鞍馬の里に至る。鞍馬は鞍馬寺の門前に出来た山里である。鞍馬寺の草創については「今昔物語」等の諸説に見られ、藤原南家の出身の藤原伊勢人という貴族が、毘沙門天と千手観音を安置して創建したとされている。しかし寺に伝わる「鞍馬蓋寺縁起」(あんばがいじえんぎ)では、我が国仏教に大きな影響を及ぼした中国の高僧鑑真(がんじん)の弟子で鑑禎(がんてい)が宝亀元年(770年)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりとされている。創建当時は天台宗に属していたが、1949年以後は、鞍馬弘教総本山となり今に至っている。本尊はもともとは毘沙門天であったが、所属宗派の変遷の中で、毘沙門天を中心として千手観世音と護法魔王尊の三身を一体として「尊天」としている。「尊天」とは「すべての生命の生かし存在させる宇宙エネルギー」であるとし、また、毘沙門天を「光」の象徴にして「太陽の精霊」、千手観世音を「愛」の象徴にして「月輪の精霊」・魔王尊を「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」としている。そのほとんどの仏像が重要文化財や国宝に指定されている。

 鞍馬にゆかりの人物といえば源義経の幼少期、牛若丸の時代に過ごしたことで有名である。1159年の平治の乱で、牛若丸の父義朝は平氏に敗北する。母常盤御前の懐に抱かれていた一才の牛若丸は、敵の平清盛に捕らえられる。美貌の常盤御前は、清盛の意のままになることで、牛若丸を含む三人の子供の命を救った。七歳の時に鞍馬寺の覚日阿闍梨の弟子となり、遮那王(しゃなおう)と呼ばれる。昼間は東光坊で学業に励み夜が更けると僧正ガ谷で天狗に兵法、剣術を習い、また夜に、寺を抜け出して五条大橋で弁慶と対峙するところは、昔からの御伽草子や伝説の定番としてあまりにも有名である。義経は後年、兄頼朝によって衣川の戦いで亡くなるが、義経の魂は鞍馬寺に戻ったとされ、それが神格化されて、遮那王尊として奥の院の義経堂に祀られている。

 また鞍馬は1022日の夜に行われる由岐神社の祭事「鞍馬の火祭り」でも有名である。祭りの起こりは平安時代の中期、平将門の乱や大地震等動乱と天変地異が相次いだ。時の天皇である朱雀天皇の命により、世の平安を願い内裏に祀られていた由岐明神(由岐神社)を、北方の鞍馬に遷宮することで北の鎮とした。その際に松明、神道具等を携えた行列は十町(約1キロ)に及んだといわれる。この行列に感激した鞍馬の住民が、由岐神社の霊験と儀式を後年に残そうと伝え、守ってきたとされる。毎年1022日に行われ夕方6時頃に、「神事にまいらっしゃれ」という合図で各家にかがり火が灯される。始めは子供が持つ小さな松明を、その後は青年などが持つ比較的大きな松明をもって、掛け声と共に集落内を練り歩く。午後8時頃鞍馬寺の山門の石段に百数十本の松明が集まり燃え盛る。やがて合図とともに注連縄(しめなわ)が切られると、松明が石段下に集められ焼かれる。その後所大明神、由岐大明神の順序で神社から神輿が下る。急な坂道のため速度が出過ぎないように女性達が綱を牽く。この綱を牽くと安産になるとの言い伝えから若い女性が多く参加する。神輿が下る際、下帯姿の若者が担ぎ棒にぶら下がるがこれを「チョッベン」といい、鞍馬の青年の元服の儀式でもある。神輿は集落内を練り歩き神楽の奉納の後、神楽松明が境内をまわり、翌2時頃神輿が御旅所から神社に戻り祭事の全てが終了する。この他にも鞍馬は620日に行われる竹伐り会(たけきりえ)式が有名である。このあたりの人々は鞍馬寺の僧兵の子孫といわれ、水への感謝と五穀豊穣を祈って行われるもので、太刀を帯びた僧兵姿の人々が近江と丹波の両座に分かれ、大蛇に見立てた青竹を刈りその速さを競う勇壮な歳時である。

 貴船は、鴨川の水源地の一つとして、古代より崇められてきた神聖な地である。かつては、「気生根」(きふね)と呼ばれた字の如く、大地の気が生まれ、湧きいずる場所とされた。鞍馬は、「闇部」(くらぶ)から転じたとも云われるほどで、都とは違った雰囲気に神々を感じていたのかもしれない。都の北に位置するこの二つの里は、いにしえの平安人の息遣いを感じさせる不思議な魅力の存る里である。












「鞍馬の木の芽煮」
 鞍馬には「木の芽煮」と呼ばれる食べ物がある。もともとは京都の普段食である「おばんざい」の一種であるが、京都の人達は「木の芽煮」と書いて「木の芽だき」と発音する。
「木の芽」とは、山椒の若葉のことでここ鞍馬では昔から多く自生していた。この土地の人たちはその山椒の実や葉を山菜と一緒に塩漬けにして食べていたそうであるが、それが現在の山椒と昆布を醤油で煮た木の芽煮の原型のようだ。山椒のピリリとした味と昆布の旨みが絶妙なバランスをかもし出し、素朴な味わいの中にも平安人の風雅を感じさせる食べ物である。
                                  

「貴船菊」
 秋に貴船の里を訪れると菊に似た可憐な花を見ることが出来る。貴船菊である。この花は別名秋明菊(しゅうめいぎく)とも秋牡丹とも呼ばれ、原産地は中国のようであるが、小さな濃いピンクや場所により白い花を咲かせる。貴船付近に多く原生しているためこのような名前が付けられたようだ。貴船菊は、静かな山里の風景に溶け込んだ、里娘の趣きを感じさせる花である。                                                                                                                        



 六条通りは、平安京の六条大路にあたり、東は河原町通りから西は堀川通りまでの路である。江戸時代には「魚棚通(うおのたなとおり)」とも呼ばれ、宝暦12(1762)刊行の「京町鑑(きょうまちかがみ)」に「此通魚や多し故に是を下魚棚といふ」と記されているところをみると、魚屋が軒を連ねていたようだ。六条通りの西の基点となる西本願寺前に魚棚町という町名がある。先の戦争で堀川通りの拡張により、強制疎開され今はないが、魚棚通りと呼ばれた由来を留めていたものと思われる。

 東の基点の河原町通りからこの路を西に100mほど行くと東北角に築地に囲まれた寺院がある。ここは「長講堂」とよばれるもので、後白河法皇がその御所である六条殿(ろくじょうどの)のうちにつくった持仏堂で、はじめは京都六条西洞院(にしのとういん)にあった法華長講弥陀三昧堂(ほっけちょうこうみださんまいどう)の略称で、「法華経」を長期にわたって講義し、あわせて阿弥陀仏を念じて三昧境(さんまいきょう)に入る道場のことを意味している。したがって長講堂は、本来固有名詞ではなく、院政期には多くの貴族たちがこうした持仏堂をつくったが、史上この後白河法皇の建立したものが最も有名で、単に長講堂と言えばこれを指すようである。長講堂には膨大な荘園が附属しており、42ヵ国89ヵ所に及ぶ膨大な荘園は、当初院政の最大の財政基盤となっていた。上皇の没後も王家(持明院統)の経済基盤として重視されたが、火災などによりたびたび移転し、天正年間(157392)に豊臣秀吉(153698)が寺町を整備した際に現在地に移転した。富小路通りに面した正門には「元六条御所 長講堂」と記された大きな石標が立っている。

路を西に行き、烏丸通りを越えると南側に東本願寺の高い築地と出会う。更に西に向かうと西本願寺に突き当たる。西本願寺は真宗本願寺派本山の寺院である。東本願寺(真宗大谷派)が「ひがしさん」と呼ばれるのに対して西本願寺は「おにしさん」と呼ばれることが多い。浄土真宗の開祖親鸞聖人が入滅後、末娘の覚信尼が1272年(文永9年)が現在の京都市東山区林下町(知恩院塔頭・崇泰院付近)に廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥とされる。廟堂は宗派の内紛により壊されたが、覚信尼の子供である覚如(かくにょ)が再建し、専修寺と号し、さらに後に本願寺と改名した。その後豊臣秀吉から寺地の寄進を受け、現在の堀川六条に移転する。また廟堂は江戸時代初頭に東山五条坂西大谷に移り、現在の「大谷本廟」となっている。

 本願寺を語る上で東西の寺院に別れた経緯にふれなければならないが、本願寺第11代門主「顕如(けんにょ)天文12年(1543)~文禄元年(1592年)」の頃、本願寺教団は、門徒による一向一揆の掌握に務める一方で、管領・細川や京の公家衆との縁戚関係を深めていった。さらに経済的・軍事的な要衝である石山本願寺(現在の大阪城内に推定される)を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、戦国大名に引けを取らない権力を有し、教団は最盛期を迎える。しかし本願寺が多大な権力を握ったことから、時を同じくして上洛を果たした織田信長から、延暦寺や堺の町衆などと同様に脅威を感じさせ、永禄11年(1568年)から圧迫を受けるようになる。そして元亀元年(1570年)、織田と本願寺はついに交戦状態に入る。これを世に石山合戦という。その一方で顕如は、弱体化していた将軍足利義昭や武田氏、朝倉氏、浅井氏、毛利氏等の有力大名と手を結び、信長と対立する。他方、石山本願寺では篭城し、近隣の土豪勢力や地方の門徒組織を動員して信長を苦しめる。しかし朝倉、浅井などの同盟勢力が次々と織田氏方によって滅ぼされると共に、長期にわたる攻囲戦により次第に疲弊する中、抗戦継続の困難を悟り信長の軍門に下り、紀伊国鷺森別院に移る。その後本願寺は、本能寺の変で信長亡き後、権力を得た豊臣秀吉と和解し、天正13年(1585年)に石山本願寺の寺内町をもとに大坂の町に転居。さらに天正19年(1591年)に秀吉により京都の七条堀川に寺地を与えられ、京都に本願寺教団を再興した。しかし、翌文禄元年(1592年)に顕如が没したら、以前より石山本願寺の合戦の撤退を巡り顕如と意見の食い違いがあった長男の教如(強硬派)に代わり、三男の准如(和睦派)が12世門主に立てられることになる。これを不満とする教如とこれを支持する勢力は、徳川家康による寺地の寄進を受け、慶長7年(1602年)独立してこれを東本願寺とした。以降、西本願寺が浄土真宗本願寺派を名乗り、東本願寺は浄土真宗大谷派を名乗ることで、本願寺は正式に分裂した。西本願寺境内には桃山文化を代表する数多くの建築物や庭園があり、平成6年(1994)、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が本堂よりも大きく造られているのが特徴で、現在「寛政の大修復」寛政2年(1800年)以来2回目の大修復「平成の大修復」が行われている。本願寺はその他にも新撰組の屯所になったこともあり、境内にあった太鼓楼と北集会所がそれにあてられた。北集会所は、現在は姫路市の亀山・本徳寺に移築され、今でも柱には当時の隊士がいたずらに刀で削った跡が残されている。