楊梅通り(ようばいとおり)は、東は東洞院通りから西は堀川通りまでの短い路である。京都の東西の通り名の数え歌は京都の人でも「まるたけえびすにおしおいけ」から始まり「しあやぶったかまつまんごじょう」まではすぐに出でくるが、この先は「せったちゃらちゃらうおのたな ろくじょうさんてつとおりすぎ しちじょうすぎれば はちくじょう じゅうじょうとうじでとどめさす」と続くのであるが、ここまですぐに出てくる人はあんがい少ない。この「せった」と言われるのが楊梅通りのことで、別名「雪駄屋町通り(せったやちょうとおり)」とよばれている。この路は平安京の頃は楊梅小路(やまももこうじ)とよばれ、このあたりにヤマモモの木があったのだろうか。藤原定家の日記「明月記」に、「夜半ばかり南に火事があり楊梅南、室町西一町焼ける」とあるが、平安時代には貴族の邸宅が建ち並んでいた。
この路の東の基点付近である木屋町に源融河原院址(みなもとのとおるかわらいんあと)と記された石標が立っている。ここには嵯峨天皇の皇子で、嵯峨源氏の祖とされている源融の屋敷があった。源融は源氏物語の主人公である光源氏のモデルともいわれている。またこの邸宅は源氏物語に登場する光源氏の邸宅である六条院と目されている。嵯峨源氏は、源義経や頼朝を輩出した清和天皇を祖とする清和源氏と共に、文武を誇る家系であるが、名前が一文字であるのが特徴である。大江山の鬼退治で有名な渡辺綱(わたなべのつな)も、嵯峨源氏の流れの人物である。源融の邸宅は、北は現在の五条通、南は正面通、西は柳馬場通、東は鴨川を範囲とする八町におよぶ広大な敷地をもち、苑池を備えた景勝地として知られたという。融没後は宇多上皇(867~931)の御所となり、東六条院とも呼ばれた。
路を西に行くと、室町通りを越えた左側に尚徳中学校がある。このあたり一帯は、江戸時代には「六条柳町」と呼ばれた遊郭があった。この遊郭は当初は二条柳町にあったが、二条城造営時に六条柳町に移った。「洛中洛外図屏風」には、その当時の賑わいが描かれているが、その時代六条の四天王と呼ばれた有名な遊女がいた。中でも史上有名なのは遊女屋林屋の太夫吉野(別名吉野太夫)で、京都の豪商・灰屋招益が、関白左大臣にもなった近衛信寿と競って身受けした。太夫吉野は初代から数えて十代目まであったといわれている。初代は本阿弥光悦などの文化人とも交流があったといわれ、和歌・連歌・俳諧を始め、琴・琵琶・笙(しょう)が巧みで、更には華道・香道・華道なども極めていたといわれている。北区鷹峰の常照寺の山門は、太夫吉野の寄進によるもので、「吉野の赤門」と呼ばれ、4月の第3日曜日には「吉野太夫花供養」の太夫行列が催される。