松原通りの東の基点は清水寺の門前から、西は佐井西通りまでの比較的長い路である。平安京造成時には、この路は五条通りであったが、豊臣秀吉が東山大仏殿を造営したとき、六条坊門小路(現五条通り)の鴨川に橋がなかったため、五条大橋を六条坊門に移してしまった。以来六条坊門通りが五条通りになり、旧五条通りが松原通りとなる。小学唱歌で、牛若丸と弁慶が登場する「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が・・・・」と歌われた橋は、松原通りに架かっていた旧橋が歌われている。現在の五条通りは、国道1号及び9号線として東西の幹線道路になっているが、一方の本家本元の五条通りである松原通りは、橋を無くしたこともあり、やや地味な存在になっている。
東の基点となる清水寺は、石山寺や長谷寺と並ぶ日本でも有数の観音霊場で、京都市内の神社仏閣の中では一番参詣客の多い観光地でもある。寺の創建については、宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げにより八坂郷の東山(現在の清水寺)の地である音羽山に至る。そこで賢心は山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行者と出会う。その行者が言うには、「私はあなたが来るのを長年待っていた。これから東国に向かうので後は頼む」と言い残し、去ってしまう。行者が観音菩薩の化身であつたことを後に悟った賢心は、行者が残していった零木に千手観音を刻み、これを庵に安置したのが清水寺の起こりと伝わっている。また後年には、坂上田村麻呂が鹿を捕まえようとして音羽山に入り、賢心と出会う。田村麻呂は、妻室の安産のために鹿の生血を求めて山に入ったのであるが、賢心に殺生の非と観世音菩薩の功徳を諭される。鹿を弔って下山した田村麻呂は、妻室に賢心にから説かれた功徳を話し、共に観世音に帰依して仏殿を寄進し、本尊に十一面観音を安置した。更に後年、田村麻呂は、延鎮上人(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観世音の脇仏として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、伴に祀ったという。
参道の長い坂を下り、路を西に向かうと右手に石段の路と出会う。産寧坂(さんねえざか)と呼ばれる坂で、三年坂という。清水寺への参道のひとつで、「この坂で転ぶと三年以内に死ぬ」との俗説がある。おそらく清水の子安観音に安産の祈願のために参詣する妊婦へ、転ばないための注意を促す意味で、このような伝承が生まれたものと思われる。その産寧坂のたもとに明保野亭跡(あけぼのていあと)と記された石標がある。ここには幕末、勤皇の志士達の密談の場所であった料亭・明保野亭があった。元治元年(1864) 6月10日、池田屋事変の残党狩で探索中の会津藩士と新選組は、明保野亭に不審者を認め槍で刺して捕えた。それが土佐藩士麻田時太郎であったため、公武合体に尽くす会津・土佐両藩の関係悪化を怖れ、刺した会津藩士柴司と麻田の両名は共に自刃した。この石標は明保野亭の跡を示すものである。ただし、明保野亭の旧地は、この石標よりやや北東である。
東大路通りを越えて路を100m程西に行くと、北側に入る細い路がある。そこを少し入ると左手に赤い門構えの寺と出会う。「六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)」である。六道とは、仏教語で衆生が生前に業因により生死を繰り返す六つの迷いの世界をいい、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上をいう。六道の辻は、六道へ通じる道の分かれる所の意で、一般的に珍皇寺の門前のことをいい、松原通の轆轤町と新シ町の間を南に至る丁字路をさす。珍皇寺ゆかりの小野篁(802~852)が冥府との往復を果たしたという伝説から、この地が六道の辻と称されてきた。京都では、盂蘭盆会前の8月7日から10日までの四日間、先祖の精霊を家に迎えるため、六道珍皇寺へ参る風習がある。これを「六道まいり」という。期間中、境内一帯は多くの参拝者で賑わう。またこの珍皇寺の門前には1軒の飴屋がある。この店の飴は「幽霊飴」と呼ばれるもので、飴には儚くも悲しい逸話がある。ある夜、飴屋の戸を誰かがたたく音で出てみると、青白い顔をした女が一人立っている。一文銭を差し出して、飴をひとつ売ってほしいという。次の夜もまた次の夜も同じように一文銭を差し出して飴をひとつ求め、それが6日間続く。飴屋はいぶかしみ「人間死ぬときには六道銭という、三途の川の渡し賃を棺桶に入れるが、それを持ってきたのだ」と思う。7日目にも女はやってきて「実は今夜はお足がございませんが、飴をひとつ・・・」という。飴屋は銭なしで飴を与え女の後をつける。女は二年坂、三年坂を越えて高台寺の墓所に入り、そしてひとつの塔婆の前で消えてしまう。飴屋がその墓を掘ってみると、中から赤ん坊が出てくる。お腹に子を宿したまま死んだ女が、母親の一念にて飴で子供を育てていたのである。飴屋は赤ん坊を引き取り、やがてその子は成人して高台寺の高僧になったという話である。「飴買い幽霊」の話は、ここ以外でも全国にあるが、現代と違い、お産は母子共の生死を分けるものであったため、子供を残して死んでいった母親たちを哀れみ、このような物語が作られたように思っている。
路を100m程西に行くと南に入る路がある。それを2~30m程行くと右手に六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)がある。正式には山号を補陀洛山といい、本尊は十一面観音、開基(創立者)は空也(くうや)上人である。この寺は西国三十三箇所、第17番札所でもある。この寺の建立は、空也上人が平安時代の中期である天暦5年(951)に、十一面観音を本尊とする道場に由来している。当時の京都は疫病が蔓延していたが、空也上人は、念仏を唱えながらこの観音像を車に乗せて引き歩き、多くの人を救ったという。当時の鴨川の岸は、遺体の捨て場であり、葬送の場であったが、空也は応和3年(963)に鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行ったと伝わっている。また空也は「踊念仏」の創始者といわれているが、これも杜会の混乱期に自然発生的に始まったと思われる。当時の世相は戦乱と闘争がくり返され、世の不安がつのっていたが、そんな時には人々は何かに頼ろうとする。それが神であり仏であったのであろう。救いを求め、そして得ることが出来たとき、人々は喜びを外面に表わし、自然と踊りだす。「踊念仏」もそのような間で自然発生したものであると考えられる。寺には運慶の四男・康勝の作といわれる空也上人立像があり、右手には鉦を叩くための撞木(しゅもく)を、左手には鹿の角のついた杖をもっている。また空也の口からは「南無阿弥陀仏」の6体の阿弥陀仏の小像が吐き出されている。境内には平清盛の墓があるが、平家が隆盛を誇った当時、この六波羅一帯は平家一門の武将たちが屋敷を連ねていた。その後平家都落ちの後は、六波羅の地は源頼朝(みなもとのよりとも)に与えられ、鎌倉幕府の政治的出先機関として、また朝廷の動向を監視する拠点として六波羅探題が置かれた。