出町柳より叡山電鉄の八瀬行きの電車に乗り、およそ15分で八瀬比叡山口駅に到着する。比叡山のふもとに佇む八瀬の里である。車でも京都の中心部から2030分で行ける距離なので、近年は住宅やマンションが立ち並び、山里の雰囲気はかなり薄れている。しかし空気は澄んでいて、ここが山ふところの里であることを感じさせる。

 八瀬の地名は壬申(じんしん)の乱の折、大海人皇子(後の天武天皇)は洛北の地に難を逃れたが、矢背(八瀬)の里で背に矢傷を負った故事による。その際に里人が「かま風呂」を持って皇子の矢傷を治したと伝えられる。「八瀬のかま風呂」は、丸い形をしたいわゆる蒸し風呂で、江戸時代には十数基あったと伝えられるが、現在は一基残っているのみである。温泉の無い京都にあって、最盛期の江戸時代にはいくつものかま風呂を有した旅館が、手ごろな保養を兼ねて多いに繁盛したという。現在も数件の旅館でかま風呂に入ることが出来るが、当然ながら現代人にも合うように改良されたものだ。

 八瀬には八瀬童子(やせどうじ)と呼ばれる人達がいる。室町時代から天皇の輿丁として奉仕した人々のことである。言い伝えでは延暦寺の雑役に従事した童子村で、伝教大師が使役した鬼の子孫とされるが、真実は延元元年(1336)、足利軍の襲来により京都を逃れた後醍醐天皇が、比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を持って奉護した。この功績により地租課税の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれたものが輿丁として朝廷に出仕し、天皇や上皇の行幸、葬送の際の輿を担ぐことを仕事とした。八瀬童子に対して昭和20年頃まで免税の特権があたえられていたという。幾百年の間に長らく途絶えていた時期もあったが、明治天皇や大正天皇が崩御の際の大葬の儀にあたっては、八瀬童子が葱華輦(そうかれん)を担ぐ習慣が復活された。昭和天皇の葬儀の時は警備上の都合により、束帯(そくたい)をまとった皇宮護衛官が駕輿丁となった。

 比叡山のふもとに位置する八瀬の里は、延暦寺と寺領と村地の境界をめぐってしばしば争った。八瀬の里人は古くより比叡山の寺領への入会権を持ち、洛中への薪炭、木工品の販売の特権を認められていた。その特権は永楽12年(1569年)、織田信長が特権を認める安堵状を与え、慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は従来どおりという綸旨を下したという。それから幾百年、高野川の上流に位置する八瀬の里は、比叡山に生息する野性の猿も時々見かける、今もって静かな里である。

綾小路通り(あやのこうじどおり)は、東は寺町通りから西は天神川通り付近まで通じている。四条通りの一筋南の通りであるのに、四条通りの喧騒が嘘のように静かな通りである。この路は道幅も狭く、一見裏通りの感があるが、平安京以来の歴史を持っていて、その昔には富裕な商人たちが居を構えていたという由緒在る小路である。寺町通りから西に向かって歩を進めると、織物に関する職種が多いのに気がつく。通り名の由来は不詳であるが、高級絹織物に「綾」があるので、おそらくは、それらの織物との関わりが想像される。


 歩を西に進めると、新町通りと西洞院通りの中ほどの北側に低い軒端が連なった京町家独特の家がある。京
都市指定の有形文化財に指定された杉本邸である。最近では多くの民家が取り壊される中、京都の町家独特の風情を残す建物として保存されている。ここの住人であった杉本家は、「奈良家」という屋号を持つ呉服商で、寛保3年(1743)に烏丸四条下ルで創業し、明和4年(1767)に現在地に移った。現在の建物は、蛤御門の変の「元治の大火」のあと、1870(明治3)年に再建されたものである。主屋は、表屋造りの形式を備え、京格子、出格子、大戸、犬矢来、土塗りのむしこ窓など、昔ながらの京町家の佇まいがそのまま残されており、市内に現存する町家にあっては最大規模に属している。祇園祭の際には伯牙山(はくがやま)の鉾町としてお飾り場になっている。


  堀川通りを過ぎて、一筋目に出会う路は岩上通りというが、この地点には室町幕府末期の天文年間、法華宗総本山妙満寺という寺があった。寺はその後秀吉の命令で寺町二条に移るが、文禄2(1593)、秀吉の招きで来日したフランシスコ会のペトロ・バプチスタ神父は、妙満寺の跡地を与えられ、この地を拠点に布教活動を行った。しかし慶長元(1596)年、キリシタン追放政策に転じた秀吉は、京都・大坂の日本人信者らとともに神父を捕え、長崎に送り処刑した。わが国においてキリスト教の信仰を理由に、しかも権力者の命令で処刑が行われたはじめての例であった。処刑は26人行われたが、うち日本人が20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人それぞれ1名であったという。この人々は後にカトリック教会により聖人の列に加えられた。そもそも秀吉がキリシタン追放政策に転じたいきさつは、次のようなことである。ルソンのマニラからメキシコに向かうスペイン船が台風に遭い、土佐の桂浜に打ち上げられて座礁するが、積荷を没収された怒りから放った一船員の言葉から流血の弾圧がはじまった。内容は「スペインは日本などが逆立ちしてもかなわぬ大国で、まず宣教師が人心をつかんで君主から離反させて、動乱を起こさせた後に政治を動かし、スペインは世界に冠たる大国になった」というのである。彼は虚勢を張り、イギリスやオランダに押され気味のスペインを誇大に吹聴したものであったが、その言葉は差し引かれず、そのまま秀吉の耳に伝わったのである。天正15(1589)に秀吉はキリシタン禁令を発するが、ルソン総督の使者として渡来するスペイン系の神父の布教活動さえ黙認していたのであるが、この船員の一言で態度を一変させたといわれている。岩上通りの東北角に「妙満寺跡・二十六聖人発祥地」と記された石標が建っている。


 大宮通を過ぎて道幅が狭くなった路を西に進むと、壬生川通りに出会う。このあたりから壬生(みぶ)とよばれる地域であるが、更に進むと南側に壬生寺に出会う。壬生寺は幕末には新撰組の屯所が置かれていたことで有名である。新撰組については、小説やテレビドラマ等で多く取り上げられているので、改めて触れる必要がないと思われるが、近年まで史学的にもほとんど注目されることはなかった。その理由は、明治政府が彼らと敵対する勢力により確立されたことが最も大きい。後に子母沢寛の「新撰組始末記」や司馬遼太郎の「新選組血風録」等の小説で、それらがテレビドラマ化して脚光を浴びるようになった。新撰組が現代の人々を魅了している大きな理由は、近藤勇や土方歳三をはじめ、多くの隊士が武士階級以外で、多くは農民階級の人々で形成されていたが、それらの人々が、最も武士らしい生き方を志したことではないかと思われる。江戸中期に備前鍋島藩士、山本常朝が武士道の在り方を記した「葉隠(はがくれ)」に、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な一節があるが、それをそのまま実践したような彼らの行き方が、現代人への強いアンチテーゼとして心に響いているのかも知れない。 境内にある壬生塚には、新選組やその遺族らによって建てられた墓碑4基がある他、近藤勇の胸像、新選組顕彰碑がある。また壬生寺正門北には現在も八木邸(京都市指定文化財)、前川邸という新選組屯所跡が、当時のままの形で残っている。 極めて余談になるが、京都に「新撰組同好会」という有志の組織がある。1022日に行われる平安神宮の祭りである「時代祭」に、この組織が参加を要請している場面を数年前にテレビでみた。参加は却下されたようであるが、全国にも多くの新撰組研究組織があるようで、まだまだ新撰組人気は続きそうである。

四条通りは、東は祇園八坂神社の楼門がある東大路通りから、西は右京区梅津中村町の臨済宗南禅寺派の長福寺の西側まで通じる大路である。多くの京都市民は、四条通りは八坂神社の石段下にはじまり、松尾大社の鳥居で終わると思っているが人が多いが、正式には上記の範囲までをいう。四条通には京都を代表するいくつもの顔がある。まず京都を代表する繁華街としての顔、祇園祭のメインストリートとして顔、祇園や宮川町・先斗町といった花街を有する顔、また南座の芝居興行や鴨川の納涼床等の京都の代表的な風物詩としての顔、また京都の経済活動を牽引する百貨店や金融・証券を有する顔、京都画壇四条派の歴史を育んだ文化の顔、そして大学から重工業を有する顔等、多彩な顔を持っているのが特徴である。

東の基点となる四条東大路には、京都市民に「祇園さん」の名で親しまれている八坂神社がある。八坂神社の祭事である祇園祭は、日本の三大祭として有名であるが、京都の夏の到来を告げる風物詩として、京都市民に欠かせない祭でもある。八坂神社の創建については諸説あるが、渡来系の一族が「八坂造」の姓を賜り、菩提寺にした説が有力とされている。創建当時は延暦寺の影響下の神仏習合で、神社としてよりも寺とみなされていたようだが、後に神社の社格である二十二社のひとつに組み入れられ、平安時代中期頃からは土地を守護する産土神(うぶすながみ)として崇められてきたようである。また祭事である祇園祭は、清和天皇の頃の貞観11(869)、当時疫病がはやるが、これの退散を祈願して六十六本の矛を立て、御霊会を行ったのが始まりとされている。また祇園祭は期間が長いことでも知られているが、7月1日の吉符入(きっぷいり)に始まり、731日の疫神社夏越祭(えきじんじゃなごしまつり)までの1ヶ月間に渡り、数々の祭事が行われる。中でも717日の山鉾巡行は、祭りのクライマックスで、それぞれの鉾町が有する山鉾が都大路を巡行するが、さしずめ“動く美術館”として、雅な装いで市民や観光客の目を楽しませている。

 花街としての祇園は、八坂神社の門前に開けた門前町で、鴨川の東から東大路までの、四条通に沿って発展した。京都の代表的な花街は五花街と呼ばれていて「祇園甲部」「祇園東」「宮川町」「先斗町」「上七軒」であるが、上七軒を除いて四条通沿いに位置している。祇園の範囲は、鴨川の東から東大路まで、北は新橋通りから南は健仁寺までと広く、その内祇園会館周辺の北東部が「祇園東」で、「宮川町」を除くその他の範囲はすべて「祇園甲部」である。宮川町は鴨川の西の川端通りから東は大和大路、北は四条通りから南は五条通りまでの範囲。また先斗町は鴨川と木屋町の間に出来た花街で、四条通りから三条通の南までの範囲である。中でも広い地域を占める「祇園甲部」は、その歴史も古く、江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人を有していたと伝わる。テレビや雑誌等によく取り上げられる新橋地区は、最も祇園らしい街並みであるとして、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。現在の祇園地域は、四条通りをはさんで、北はクラブやスナックが多く、南は大石内蔵助が遊興したといわれている一力茶屋を始めとする昔ながらのお茶屋が軒を連ねている。余談であるが京都では茶を商うお茶屋を、花街のお茶屋と識別するため、「葉茶屋」と呼び識別している。各花街は舞踊の流派もそれぞれ違い、独自の文化を有していて、春や秋にはそれぞれの花街が、舞踊の公演を行ない、日頃磨いた技量を一般にもお披露目している。

 四条大橋を渡ってしばらく行くと河原町通りに差し掛かる。この一帯は京都一の繁華街で、百貨店を始めブティックや飲食店等が軒を連ねている。また地下には大阪梅田に通じる阪急電鉄河原町駅があり、ターミナルとしての機能も併せ持っている。更に西に行くと寺町通りとの交差点に八坂神社の「お旅所」がある。このお旅所は、八坂神社の祭礼である祇園祭の際、ご神体をのせた神輿が休憩する場所で、717日の神幸祭でお旅所に迎えた神輿が、727日の還幸祭に八坂神社に帰還するまでの休息場所である。更に西に行くと烏丸通に至るが、このあたりから堀川通りまでは祇園祭の鉾町が連なっている。山鉾巡行の先頭を務める長刀鉾を有する長刀鉾町をはじめとして、函谷鉾(かんこぼこ)の函谷町、月鉾の月鉾町、郭巨山(かっきょやま)の郭巨山町、四条傘鉾の傘鉾町等である。一方でこの界わいは金融・証券会社が多く、オフィス地域でもある。そんな関係で、鉾町には民家が少なく、したがって住民の流出等で山鉾の保存や維持、また囃し方の確保に苦労する鉾町も多く、伝統の継承への危機感も生じている。

 烏丸通りと堀川通りの中間に位置する西泂院通りの東南角に、「化粧水」と記された石碑がある。この地には、平安時代、六歌仙の一人であり、絶世の美女として後世にも広く知られている小野小町路の別荘があったとされ、その邸内の井戸を小町が利用したことに因んで井戸は化粧水と名付けられたという。現在、井戸そのものは埋め立てられて存在していないが、このあたりでは今でも地下水を使用している家もあるとのことで、おそらく小町が使っていた井戸と同じ水脈が今も流れているものと思われる。この他にも京都市内には小町とゆかりのあるものは多く、山科区の随心院の中にも小町の化粧水と呼ばれる井戸がある他、上京区の一条戻り橋近くには「小町通り」と呼ばれる小さな路が存在している。

 路を更に堀川通りを過ぎ100m程西に行くと四条大宮の交差点に達する。この一帯はサウナ、パチンコ屋、映画館、縄のれん、スナック、屋台の店等が混然と軒を連ねている繁華街であるが、もう一方の繁華街である四条河原町周辺が華やかでおしゃれなのに対して、庶民的な顔を持つ街である。ここには京福電鉄嵐山線の始発駅と阪急電鉄京都線の大宮駅が地下にある。更に歩を西に進めると西大路通りとの交差点に至る。この近辺は古くから西院と呼ばれ、四条大宮を出発した京福電鉄と阪急電鉄の西院駅がある。面白いのは同じ西院という名を書いて京福電鉄は「さい」と呼び、阪急電鉄は「さいいん」と呼んでいる。名前の謂れも諸説あるが、そのひとつは平安時代の初期、淳和天皇がここに離宮を建てた際、御所より西にあったため、西院と呼ばれるようになったというものである。またもうひとつの説は、西大路四条の北東角に「高山寺」という小さな寺があるが、昔このあたりは桂川と鴨川が合流する地点であり、「佐比河原(さいのかわら)」と呼ばれる河原があったそうで、周辺の農民が埋葬されていた。その霊を慰めるために石仏や石塔を建てたのがこの寺の始まりといわれている。ちなみに高山寺の本尊は地蔵菩薩であるが、親より早く死んだ子が、三途の川のほとりの賽の河原で子どもたちが親のために小石を積んでいると、鬼がやってきてそれを壊してしまうのであるが、そこへ地蔵菩薩があらわれて子どもたちを救うという、仏教の教えから発した庶民信仰の寺のようでもある。西大路通りより一筋西に行くと「佐井通り(別名:春日通り)」とよばれる路があるが、このような謂れと関係しているように推察される。