綾小路通り(あやのこうじどおり)は、東は寺町通りから西は天神川通り付近まで通じている。四条通りの一筋南の通りであるのに、四条通りの喧騒が嘘のように静かな通りである。この路は道幅も狭く、一見裏通りの感があるが、平安京以来の歴史を持っていて、その昔には富裕な商人たちが居を構えていたという由緒在る小路である。寺町通りから西に向かって歩を進めると、織物に関する職種が多いのに気がつく。通り名の由来は不詳であるが、高級絹織物に「綾」があるので、おそらくは、それらの織物との関わりが想像される。
歩を西に進めると、新町通りと西洞院通りの中ほどの北側に低い軒端が連なった京町家独特の家がある。京都市指定の有形文化財に指定された杉本邸である。最近では多くの民家が取り壊される中、京都の町家独特の風情を残す建物として保存されている。ここの住人であった杉本家は、「奈良家」という屋号を持つ呉服商で、寛保3年(1743)に烏丸四条下ルで創業し、明和4年(1767)に現在地に移った。現在の建物は、蛤御門の変の「元治の大火」のあと、1870(明治3)年に再建されたものである。主屋は、表屋造りの形式を備え、京格子、出格子、大戸、犬矢来、土塗りのむしこ窓など、昔ながらの京町家の佇まいがそのまま残されており、市内に現存する町家にあっては最大規模に属している。祇園祭の際には伯牙山(はくがやま)の鉾町としてお飾り場になっている。
堀川通りを過ぎて、一筋目に出会う路は岩上通りというが、この地点には室町幕府末期の天文年間、法華宗総本山妙満寺という寺があった。寺はその後秀吉の命令で寺町二条に移るが、文禄2年(1593)、秀吉の招きで来日したフランシスコ会のペトロ・バプチスタ神父は、妙満寺の跡地を与えられ、この地を拠点に布教活動を行った。しかし慶長元(1596)年、キリシタン追放政策に転じた秀吉は、京都・大坂の日本人信者らとともに神父を捕え、長崎に送り処刑した。わが国においてキリスト教の信仰を理由に、しかも権力者の命令で処刑が行われたはじめての例であった。処刑は26人行われたが、うち日本人が20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人それぞれ1名であったという。この人々は後にカトリック教会により聖人の列に加えられた。そもそも秀吉がキリシタン追放政策に転じたいきさつは、次のようなことである。ルソンのマニラからメキシコに向かうスペイン船が台風に遭い、土佐の桂浜に打ち上げられて座礁するが、積荷を没収された怒りから放った一船員の言葉から流血の弾圧がはじまった。内容は「スペインは日本などが逆立ちしてもかなわぬ大国で、まず宣教師が人心をつかんで君主から離反させて、動乱を起こさせた後に政治を動かし、スペインは世界に冠たる大国になった」というのである。彼は虚勢を張り、イギリスやオランダに押され気味のスペインを誇大に吹聴したものであったが、その言葉は差し引かれず、そのまま秀吉の耳に伝わったのである。天正15年(1589)に秀吉はキリシタン禁令を発するが、ルソン総督の使者として渡来するスペイン系の神父の布教活動さえ黙認していたのであるが、この船員の一言で態度を一変させたといわれている。岩上通りの東北角に「妙満寺跡・二十六聖人発祥地」と記された石標が建っている。
大宮通を過ぎて道幅が狭くなった路を西に進むと、壬生川通りに出会う。このあたりから壬生(みぶ)とよばれる地域であるが、更に進むと南側に壬生寺に出会う。壬生寺は幕末には新撰組の屯所が置かれていたことで有名である。新撰組については、小説やテレビドラマ等で多く取り上げられているので、改めて触れる必要がないと思われるが、近年まで史学的にもほとんど注目されることはなかった。その理由は、明治政府が彼らと敵対する勢力により確立されたことが最も大きい。後に子母沢寛の「新撰組始末記」や司馬遼太郎の「新選組血風録」等の小説で、それらがテレビドラマ化して脚光を浴びるようになった。新撰組が現代の人々を魅了している大きな理由は、近藤勇や土方歳三をはじめ、多くの隊士が武士階級以外で、多くは農民階級の人々で形成されていたが、それらの人々が、最も武士らしい生き方を志したことではないかと思われる。江戸中期に備前鍋島藩士、山本常朝が武士道の在り方を記した「葉隠(はがくれ)」に、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という有名な一節があるが、それをそのまま実践したような彼らの行き方が、現代人への強いアンチテーゼとして心に響いているのかも知れない。 境内にある壬生塚には、新選組やその遺族らによって建てられた墓碑4基がある他、近藤勇の胸像、新選組顕彰碑がある。また壬生寺正門北には現在も八木邸(京都市指定文化財)、前川邸という新選組屯所跡が、当時のままの形で残っている。 極めて余談になるが、京都に「新撰組同好会」という有志の組織がある。10月22日に行われる平安神宮の祭りである「時代祭」に、この組織が参加を要請している場面を数年前にテレビでみた。参加は却下されたようであるが、全国にも多くの新撰組研究組織があるようで、まだまだ新撰組人気は続きそうである。