錦小路通りは東は新京極通りから、西は壬生川通りまでの路である。この路筋でなんといっても有名なのが、京の台所と呼ばれている新京極通りから高倉通りの間にある「錦商店街」であろう。昨今は、テレビの旅番組などに、しばしば登場するので広く周知されるようになったようである。この路は、文献によると平安京造成当時から存在していた小路で、建設当時は道幅が12メートルの広い路であったようだ。その後、時代を経るにしたがい細くなり、室町中期の15世紀の中頃から後半にかけて勃発した応仁の乱や文明の乱でかなり荒廃したという。錦小路は平安京以来、この名前であったわけではない。平安京には○○大路とか○○小路と名が付けられているものが多いが、これは一種のニックネームで、最初から付されたものもあれば、途中からのものもある。錦小路は後者の部類で、最初は具足商が多かったため、具足小路とよばれたが、それがいつのまにか訛って屎小路(くそこうじ)になったという。この名前の由来に関して面白い逸話がある。13世紀頃、宇治大納言源隆国が編さんした都にまつわる数々の説話が記された「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」によると、19世紀の中頃、「清徳聖(せいとくひじり)」と呼ばれた仙人がいて、藤原右大臣が米十石を施したところ、たちまち食べてしまった。この仙人には人間の目には見えない餓鬼・畜生(がき・ちくしょう)がついていたので、この連中も同時に施しにあやかったのである。この清徳聖、すっかり満腹になると小路を歩きながら排泄物を長々とやりだしたのである。この仙人についている餓鬼・畜生も共にやったので、小路は排泄物で満杯になったという。こうして路名が「くそ小路」とよばれるようになったという。その後この小路名を聞いた天皇は、「あまりにきたなくなり」と仰せられ、「綾小路(あやのこうじ)」があるから、「綾錦(あやにしき)」からとって錦小路にせよとの命が下り、現在の路名になったというのである。ある記録文献では、天喜2(1054)、後冷泉天皇の宣旨により「具足小路」を「錦小路」に改名したとされているので、どちらかといえば、こちらが正確なものと思われる。

 東の基点となる新京極通りには小さな神社がある。錦天満宮である。この神社の歴史は、菅原道真の父親である菅原是善(すがわらのこれよし)の一条三坊十二町(勘解由小路南・烏丸西)に所在した旧邸「菅原院」を、嵯峨天皇の子で大納言も務めた源融(みなもとのとおる)の旧邸・六条河原院の跡地に移築して、「歓喜寺」という寺院が創建された。その鎮守社として「天満宮」を祀ったのが始まりとされる。後に豊臣秀吉が行った当時の都市計画により、寺とともに現在の場所に移転した。更に後の明治の神仏分離令により神社だけが残された。錦通りに面しているので「錦天満宮」の名が付いたようである。この神社には少し風変わりなおみくじがある。「からくりみくじ」というのである。社務所の前に立つと、神楽とともに機械仕掛けと思われる獅子舞が現れ、賽銭を投入しておみくじを引くと獅子が舞いながら手元に届けてくれる。このからくり人形のおみくじは、今様の感覚にマッチして若い人には人気があるようだ。また境内には京都の名水として知られている「錦の名水」の井戸がある。京都の繁華街の真ん中にありながら自然に湧き出し、味は無味、無臭で飲用に適する良質の御神水とされ、持ち帰ることも自由である。境内に源融を祀る塩竈神社、日乃出稲荷神社・白太夫神社などもあり、ビルの谷間の異空間になっている。

 錦天満宮から歩を西にとるとすぐに賑やかな商店街に遭遇する。錦商店街である。この商店街は江戸期に入って魚市・魚棚が作られたのが始まりといわれている。その名残であろうか、路筋には東魚屋町、中魚屋町、西魚屋町等の魚にまつわる町名がみられる。その後近郊農民が作った京野菜等を売る青物市も立ち始め現在のような商店街を形成していった。この商店街の特徴は、多くの生鮮品の店が、時間をずらせて卸と小売を行っていることである。卸しは料亭や飲食店等を対象に早朝から午前9時頃まで行い、一旦店を閉めて陳列をし直し、昼頃から小売をするという形態をとっている。この商店街は最近テレビ番組等に多く取り上げられ、今では京都市民のみならず、観光客の人気のスポットにもなっていて、観光シーズンともなれば多くの人が、京ならではの味や品を求めて訪れている。

蛸薬師通りは、東は川原町通りから西は佐井西通りまで通じる路である。平安京造成時は四条坊門小路と呼ばれていたが、天正19(1591)に豊臣秀吉が行った都市改造のときに、室町二条下がるにあった天台宗の永福寺が妙心寺に合併され、現在の新京極通り蛸薬師に移転した際に通り名を蛸薬師通りに変わったといわれている。通り名の由来は、その永福寺の本尊が石造薬師如来の俗称が「蛸薬師」にあったことからと推察されている。


  東の基点となる蛸薬師通り河原町を下がったところには、幕末の頃、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」があった。「まだその藩なるものの妄想が覚めぬか、薩州がどうした、長州がなんじゃ、要は日本ではないか、なあ小五郎」近江屋の二階で、中岡慎太郎と共に刺客の刃に倒れた龍馬が、薩長連合を作る際に長州の桂小五郎を説き伏せたときの言葉とされる。龍馬は慶応31115日(18671210日)の暗殺当日には風邪を引いて河原町の蛸薬師で、醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいた。それから遡ること2日前の1113日、新撰組から袂を分かった御陵衛士・伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので三条の土佐藩邸に移るように助言するが、龍馬はそのまま近江屋に留まる。暗殺された当日は、陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などの訪問を受けている。中岡はそのまま龍馬と話していたが、十津川郷士と名乗る男達数人が訪れた。応対に出た元力士の山田藤吉は龍馬に取り次ごうとするが、後ろから斬られる(1日後に死亡)。このとき龍馬は斬られて悲鳴を上げた山田に、ふざけていると思い込み「ほたえな!」と言い、結果として刺客に自分たちの場所を教えてしまう。龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと思い込んでおり、刀を手元に置いていなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するも死亡。享年32歳であった。中岡も2日後に死亡した。享年29歳であった。この龍馬暗殺の下手人については、後年、元京都見廻組の今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言したことで、彼らの確率性が高いとはされているが、当初、中岡の証言で刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新選組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた(事実、大石鍬次郎は、龍馬暗殺の罪で殺されている)。他にも薩摩の陰謀説等、複数の人間の名前が挙がっているが、今もって謎が多い。歴史にもしもはないが、もし龍馬が生きていれば明治維新の政治形態は確実に変わっていたと思われる。現在は近江屋の建物はなく、跡地には「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された1メートルあまりの高さの石碑が立っているのみである。また京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されているが、それは淡海槐堂が暗殺当日に龍馬に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品であると思われる。付着した血痕は暗殺された龍馬のものといわれている。

 路を西に行くと新京極通りに、路は北に少しずれ再び始まる。そのちょうど再基点となる場所に蛸薬師堂と呼ばれる永福寺がある。繁華街・新京極に面した門前には名店の提灯があがり、お参りの参詣客が絶えない。この寺は冒頭に記した通り名の語源になったもので、薬師堂にはこのような逸話が伝わっている。この寺に善光という僧がいたが、ある時母が病気になり、寺に迎えて看病していたが、一向に病はよくならず、母は「子供の頃から好物だった蛸を食すれば病が治るかもしれない」と善光に告げる。しかし善光は僧侶の身で、蛸を買いに行くことを躊躇していたが、病弱な母のことを思うと、いてもたってもいられず箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰る。これを見た町の人々は、僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光の後をつけて寺の門前で、箱の中を見せるようにと彼に迫る。善光は断ることも出来ず、一心に薬師如来様に祈り「この蛸は、私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうぞ、この難を助け下さい。」と祈りながら箱を開けると、蛸はたちまち八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に照らしたといわれる。この光景を見た人々は皆合掌し、南無薬師如来と称えると不思議なことに、この経巻が再び蛸になり、門前にあった池に入り、瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復したというのである。それ以来本尊の薬師如来は、蛸薬師如来様と称されるようになり、この地で病気平癒を祈れば、身体の病だけでなく心の病もたちまち回復し、子を望めば生じ、財を願えば叶うといわれている。庶民信仰に厚く支えられてきた薬師堂ならではの逸話である。

 路を更に西に行くと、室町通りを越えた北側に、その昔、安土桃山時代に「南蛮寺」と呼ばれたキリシタン教会があった。永禄4(1561)、京都で最初の礼拝堂が建設されたといわれ、キリシタンを庇護した織田信長が建てたとされている。その後相次ぐ戦乱の中で荒廃してしまうが天正4(1576)、キリシタン大名の寄進や、オルガンティーノやルイス・フロイスを中心とした伴天連信者らの尽力により、新たな聖堂が落成したといわれる。この聖堂は、当時の教会にしては珍しい和風3階建て(1階は礼拝堂・3階は住居)で、その特異な外見は伝狩野元秀(かのうもとひで)が描いた「洛中洛外名所扇面図」(らくちゅうらくがいめいしょせんめんず)にも掲載された。フロイス著「日本史」の記録によると、天正4721日、オルガンティーノによってこの南蛮寺で初めてミサが行われた。この日はイエズス会のフランシスコ・ザビエルが薩摩に到着した日で、また西暦(ユリウス暦)では815日に相当し、聖母被昇天の日にあたる。この日を記念して教会の呼称および守護聖人は「被昇天の聖母マリア」に決められたと伝記されている。南蛮寺は天正16(1588)、キリシタンを迫害した豊臣秀吉の伴天連追放令に伴い破却された。現在はその跡を示す石標が立っているのみである。

 更に路を西に行くと、小川通りと交差する西南角に「本能寺址」の石標がある。現在の本能寺は寺町通り御池にあるが、明智光秀の謀反により織田信長が殺された「本能寺の変」で有名なものは、この地にあった。当時の本能寺は、東は西洞院通りから西は油小路通り、北は六角通りから南は蛸薬師通りまでの広い範囲に位置し、近年の発掘調査で、
大量の焼け瓦が見つかった他、堀の址や石垣が積まれた址等があり、さしずめ堅牢な砦の体を成していたことがうかがわれる。少子化に伴い廃校になってしまったが、ここには本能寺小学校という小学校があったが、ほぼ旧本能寺の敷地に建っていた。光秀が信長に反旗を翻した原因については、今もって定かではなく、現在でも定説が確立されていない。一般的によく言われているのが信長に対する遺恨説であるが、それも複数説があり、満座の中で恥をかかされた説、或は丹波の所領からまだ敵地であった出雲国・伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられたことへの恨み説、また八上城の戦で、母を信長のために死なせてしまった等々の複数の説がある。現在の寺町通り御池にある本能寺には、豊臣秀吉の命によりに移転された。

 大宮通りとの交差点を過ぎると後院通りと交わるが、その西南にある壬生坊城団地の前に「四条坊門小路跡」記された石標がある。四条坊門小路は平安京を東西に走る道路で、三条大路と四条大路の中間に位置し、その南には錦小路、北には六角小路が並行して通っていた。現在の蛸薬師通にほぼ該当し、4(12)の道幅を有する広い路であった。昭和49(1974)、市電壬生車庫跡地を発掘調査した際、平安から鎌倉時代の四条坊門小路南北両側、平安時代前期と中期の井戸、中期から後期の建物群の遺構が検出された。その後の試掘調査でも、平安前期から鎌倉時代にかけての四条坊門小路南側溝やその路面が検出されている。

 

 

 

 

御池通り(おいけどおり)は、東は川端通りから西は天神川通りまでの全長4,9キロの長い路である。現在の御池通りは、京都市内では一番道幅の大きな50メートル道路になっているが、平安京造成時は三条坊門小路と呼ばれ、さほど広い路ではなかったと推測される。御池通りの呼称については諸説あるが、宝暦年間に作られた「京町鑑」によると「この通の号は神泉苑(しんせんえん)の前通ゆへ斯くよぶ」とある。また寛文年間発行の「京雀」には「三条坊門通この筋を東にては八幡町通と云、西にては御池通と云、此筋室町に御池町あり、むかし鴨居殿とて御所あり、鴨の下居池の井ありける跡也とかや」とある他、郷土史家の碓井小三郎氏が、明治29年から20年の歳月を費やして、京都の町名や通り名を調べ書き上げた地誌「京都坊目誌」によると、「此街烏丸に別邸あり。藤原良実の此邸内の池水を龍躍と号す。極めて清涼なり。斯水三条坊門に注ぐ。之より御池と号す」と記されている。このように地名説としては、「御池通神泉苑起源説」と「二条殿御池起源説」が存在するが、明確なところは定かではない。

御池通りの東の基点付近である御池大橋西詰めには、明治13(1880)まで、府立医科大学附属病院の前身である「寮病院」という病院があった。この病院は東京遷都後の明治五(1872)年、欧化政策を進める京都で、蘭方医明石博高が槇村正直知事の協力の元に開設した病院である。ドイツ人医師ヨンケルを招き開設に至ったが、資金拠出がユニークで、寺院をはじめ、花街の芸妓も協力したといわれ、行政主導の病院開設が通常の時代にあって、まさに民の力で建てられた府民病院であったという。現在は小さな石標を残すのみである。

 

路を西に河原町通りとの交差点の北東角に京都ホテル・オークラがあるが、ここには幕末まで長州藩邸が置かれていた長州藩邸は元治元(1864)年禁門の変で焼失するまで、幕末における尊王攘夷運動の拠点となり、桂小五郎やはじめ、小幡彦七郎、周布政之助、佐久間佐兵衛、中村九郎といった長州藩の志士たちが挙っていた。長州藩邸は、高瀬川の一之舟入に接している事から、西陣織など京都の文物を買い込んだり、国元の物産を京都で売るといった経済的な役割や、京都の有職故実や流行ものを調べるといった文化的な役割をも持つ出先機関であったと思われる。鳥羽伏見戦(1868)の後、京都での地位を取り戻した長州藩は、その焼け跡を戊辰戦争の征東に赴く長州兵の調練場としたといわれている。京都ホテル・オークラの路に面した敷地内には、刀を携えた桂小五郎(後の木戸孝允)の像と「長州屋敷跡」と記された石標がある。

 

更に西行くと柳馬場通りと交差したところの北側に柳池(りゅうち)中学校があるが、その前に「日本最初小学校柳池校」と記された記念碑がある。明治維新後の東京遷都により、一地方都市として衰退することをおそれた京都府は、一刻も早く近代都市として生まれ変わらせるために、最初に着手したのが小学校の建設だった。明治元(1868)年閏4月、京都府が設置された翌年には上京33、下京3265番組に区分化し、番組毎に小学校が設立された。上京27番組では同年9月仮学舎で授業が開始され、翌年521日富小路御池角守山町に上京第二十七番組小学校として日本最初の小学校授業が行われた。明治6(1873)年にこの地に新築移転し、以後柳池小学校と称したが、昭和22(1947)年の新学制により柳池中学となり今に至っている。

 

路をまた西に行くと、間之町通りとの交差する南側に「在原業平邸址」の石標がある。在原業平(82580は、平安初期の代表的歌人で六歌仙の一人で、父は平城天皇の皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女伊都内親王であったが、2歳の時に在原の姓を名乗り臣籍に降ったと伝わる。業平は、「伊勢物語」の主人公と目されているが、この物語そのものの作者も不詳で、業平らしき人物が登場するが、古来より多くの人によって研究されてきたが、未だ確証には至っていない。物語の内容は、ある男の元服から死にいたるまでを、歌と歌に添えた物語によって描いたもので、歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼んだりしている(第63段)ところから、主人公を業平とする説が主流となった。

 

御池通りと烏丸通りが交差する北東角に「烏丸御池遺跡・平安京跡」という記念碑がある。ここには南北約600メートル・東西約800メートルという広い範囲にわたって縄文時代晩期から古墳時代にいとなまれた集落の跡が発見された。発掘調査によると、弥生時代の住居跡や古墳時代の遺物などが見つかっている他、ここから約700メートル北に広がる烏丸丸太町遺跡とともに、平安遷都以前からいとなまれていた集落遺跡である。また平安京は、中京区壬生附近を中心とした、南北約5.2キロメートル、東西約4.5キロメートルの広さにわたっていた。現在の御池通は、平安京の二条大路と三条大路の間を通っていた三条坊門小路にほぼ相当している。

 

路を西に、堀川通りを越して大宮通り付近まで来ると、右手に池を湛えた神社のような建物が見える。神泉苑である。神泉苑は御池通りの語源になったとも言われているが、その歴史は古く、平京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営され、貴族階級だけが出入りすることを許された遊興の地で、主たる目的は天皇のために造られた庭園で、禁苑と呼ばれたものである。現在は真言宗の寺院であるが、神泉苑には数々の逸話が残されている。そのひとつが西寺の守敏と、東寺の空海(弘法大師)とが祈雨の法を競ったものである。結果、空海が勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったといわれている。また源義経と静御前が出会った場所であるとも伝承されている。

更に歩を西に進めるとJR二条駅に突き当たる。ここには平安京のメインストリートである朱雀大路が通り、朱雀門があったという。朱雀大路はほぼ現在の千本通りに該当するが、道幅84メートルの平安京最大の大路で、北は大内裏正門である朱雀門から、南は洛中と洛外を分ける門であった羅生門までを貫通していた。今は当時を偲ぶものは何一つ存在せず、「平安京朱雀大路と朱雀門」と記された石標を残すのみである。