押小路通り(おしこうじどうり)は、平安京造成時から押小路の名称で呼ばれた古い路で、東は木屋町通りの一之舟入町(いちのふないりちょう)から、西は千本通り西ノ京北正町までの全長2,6キロの通りである。東の基点となる一之舟入町には、江戸初期の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が開墾した高瀬川が流れているが、町名の舟入とは荷物の積み下ろしや船の方向転換をする場所の名称で、四条から二条の間に9ヵ所作られていた。現在は「高瀬川一之舟入」として国指定の史跡になっている。この界隈には角倉了以の邸宅跡や、その他にも幕末の史跡が多く、長州藩に仕え、後に明治新政府で近代兵制に尽力した大村益次郎が襲撃された宿舎跡、また長州藩士の桂小五郎と恋仲であった芸妓幾松が、蛤御門の変の後、新撰組に追われながら苦難の時代を過ごした住居跡等の史跡がある。

 江戸中期の延宝6(1678)に刊行された「京雀跡追」によると、押小路通りは「このあたり、みな家具、御敷(おしき)ぬり師多し」と記されている。路を西に行くと現在もこの通り沿いには御所人形、竹細工、金工、扇子などの店が散在している。更に西に行くと釜座通りと交差する西北角に「東三条殿址」という碑がある。東三条殿とは平安京左京三条三坊にあった邸宅で、藤原良房(80472)が創設し、摂関家嫡流に伝領され、藤原兼家(92990)が住まいした頃から東三条殿と称された。兼家の娘で一条天皇(9801011)の母であった詮子(9611001)は、初めて女院号を与えられ、居住地に因み東三条院と名乗ったという。また西に歩を進めると小川通りと交わる北西の角に「閑院内裏址(かんいんないりあと)」という石標が立っている。閑院内裏は、平安京二条にあった邸宅で、藤原冬嗣(795826)によって創建されたとされている。庭内に泉が湧き、その閑雅な風情から「閑院」と名付けたと伝わっている。平安時代前半は藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏であった。鎌倉初期まで存続し、正元2(1259)年の火災後、再建されることはなかった。この石標はその跡を示すものである。

 堀川通りに出ると、路は二条城に突き当たる。城に沿って南に少し下がると路は、再び二条城の南の堀に沿って続いている。堀沿いに進んで行くと、神泉苑(しんせんえん)を過ぎたあたり、南側に「南町奉行所」があった。この奉行所は寛文8(1668)年に創設され、江戸幕府の出先機関として、京都所司代等の司法・行政の権限が委譲された。現在ではそれを偲ぶ跡形はない。この史跡址のほど近く、二条城の西南角、見福通りと交差するところに「二条城撮影所址」という小さな石標がある。明治43(1910)年、横田永之助(18721943)の横田商会により京都初の撮影所が開設された。この地で日本映画の父と言われる牧野省三(18781929)が、尾上松之助(18761926)とコンビを組み、最初の作品「忠臣蔵」を撮影した。法華堂撮影所(上京区御前通一条下る)ができるまで、この撮影所は2年間使われたという。

また路を挟んで南側には平安時代、大学寮があったという。大学寮は、平安時代の高等教育機関で、式部省の管轄下にあり、現在の大学の総長にあたる大学頭(だいがくのかみ)以下の事務官、博士以下の教官、学生から成り立っていた。治承元年(1177)年の大火で焼失したといわれている。

 二条通りの東の基点は白川に架かる岡崎橋を始めとし、西は二条城の東側を通る堀川までの路である。現在の二条通の道幅は6?ほどであるが、平安京造成時は二条大路とよばれ、道幅は51?で、南北の朱雀大路の86?に次ぐメインストリートであったという。また二条大路は平安京大内裏の南限にあたる路でもあった。そのために当時の道筋には穀倉院、大学寮、木工寮、雅楽寮などとよばれた内裏御用の官庁や、冷泉院、二条院、東三条院、二条殿といった貴族の邸宅が立ち並んでいたといわれる。残念ながら現在では当時を思わせる史跡類は、何ひとつ存在してはいない。東の基点付近となる岡崎橋周辺には明治以来、一代で財を成した人々が建てた邸宅が隣立している。細川家別邸、野村家別邸、或いは落翠荘、真々庵といったものが代表的なもので、そのほとんどに明治の名庭園師として名を馳せた小川治兵衛氏が手がけた庭園がある。その他にも白河天皇が造成した法勝寺跡などの史跡がある。法勝寺は六勝寺と呼ばれた寺のひとつで、藤原氏の別荘地であった白河別業の地を白河天皇に献上したが、天皇はその地に法勝寺を建立した。六勝寺とは平安時代後期の院政期に、時の天皇、皇后らによって建てられた仏教寺院で、法勝寺、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺といったすべての寺院に「勝」の文字が入ることからそのようによばれ、ほとんどが二条通に面した岡崎付近にあった。中でも法勝寺の伽藍は広大であったとされ、東は岡崎道より300?付近まで、西は岡崎道まで、南は岡崎動物園南から北は冷泉通りの南50?付近までというものであった。中でも高さ80?とされる八角九重塔は、京の東に隆々とそびえていたといわれる。京都市勧業館に縮小された当時の塔の模型がある。

 路を西にどんどん進むと堀川通に出て、やがて二条城に突き当たる。二条城はその名が示すように、二条通りに面しているところからその名が由来している。何よりも二条城が歴史的にクローズアップされたのは、徳川慶喜による徳川幕府の大政奉還が行われた政治的事件の場所としてであるが、一方で歴史書において「二条城」とよばれるものは複数ある。足利幕府を開いた足利尊氏から義満までの三代の将軍が二条に屋敷を構えたため、「二条陣」または「二条城」とよばれたもの。また足利幕府15代将軍足利義昭のために織田信長が居城したものがある。後者のものは、下立売通り室町にある平安女子学院付近にあったとされ、京都御苑の西の端に石垣の遺構が残されている。また織田信長が京に滞在中の宿舎として整備し、後に天皇に献上した「二条新御所」があるが、御池通り室町上がる付近にあったとされる。そして現存する二条城は、徳川家康が京に滞在中の宿舎として造ったものである。慶長6年(1601)、関が原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮通り押小路に築城を決め、西国諸大名に普請への割り当てを行い造成した。慶長8年(1603)に落成したが、天守閣は後の慶長11年(1606)に完成した。その天主閣は大和郡山城のものを移築したといわれている。更に三代家光の寛永年間に御水尾天皇の行幸を迎えるための大改造がされた。その際に本丸も新築され、天主閣はその当時廃城となっていた伏見城の五層天主が移築されたという。更に天主閣はその後、江戸の中期に落雷にて消失したが、太平の世に天守閣は無用として再建されなかった。幕末に入って二条城は、徳川慶喜が天皇からの将軍職の詮議を受けた場所となる等、主に京都における対朝廷との幕府の出先機関としての役割を担った。平成6年に古都京都の文化財を構成する17の歴史的建築物のひとつとして、世界文化遺産に登録された。建物のほとんどが、国宝や重要文化財に指定されている。

夷川通り(えびすがわとおり)は、鴨川西から二条城の東側の路である堀川
通りまでの短い路ある。この路は家具の専門店が軒を連ねていることで有名で
あるが、その家具街は烏丸通から寺町通りまでの間で、和洋家具、ブライダル
家具、絨毯、システムキッチン、インテリア、入浴設備、屏風などおよそ住まいに
関わる店が在る。夷川通りの由来については、
宝暦十二年(1762)に発刊され
た古文書である「京町鑑(きょうまちかがみ)」によると、「住古、西洞院中御門に
北山の下流あらはれ、又此辺に蛭子社有しゆへ恵比寿川と号し、その後次第に
人家建ちつづきし故に通りの名とす」とある。この地域の語り伝えでも、大雨の
際に左京区の若王子(にゃくおおじ)神社に祀られている恵比寿さんが流れつい
たのが地名の謂れとされている。平安京造成時は冷泉小路(れいぜいこうじ)に
あたるが、慶長7年(1602)の二条城築城で、通りは堀川以東となった。鴨川を越
えた東に琵琶湖疎水に南に沿って冷泉通りという路がある。鹿ケ谷(ししがたに)
の若王子(にゅくおおじ)町の疎水から平安神宮応天門前を経て川端通り新生州
(しんいけす)町まで続く路であるが、以前に存在していた冷泉通りとは関係がな
く、明治の中ごろに出来た琵琶湖疎水の開通に伴って出来た路で、夷川通りの
延長線上に位置的にあたるため旧名を復活させたものと思われる。
 
夷川通り界わいには史跡はほとんどないが、烏丸通りの夷川下がる東側に「中
沼了三先生講書之所」という石碑がある。
中沼了三(181696)は、隠岐出身の儒
学者で、上洛して学び,師の鈴木恕平亡き後この地に学舎を開いた。勤皇家でた
びたび投獄されたが屈せずに人材を育成した。維新後も教育者として活躍し、新
政府軍の参謀・天皇の侍講・昌平黌教授等を勤めたが、上層と合わず官を辞した。
この石標は中沼了三の塾跡を示すものである。