竹屋街通り(たけやまちどおり)は、平安神宮の西にある桜馬場通りを東の基点とし、鴨川で一旦途絶えるが、河原町通りから東に一筋の土手町通りから再び始まり、そして千本通りまで通じている。平安京造成時の寺町通りから大宮通りの間は「大炊御門大路(おおいのみかどおおじ)」にあたる。応仁の乱で荒廃するが、江戸時代には古道具、刃物、竹屋、宮大工、魚屋などが軒を連ねていた。多くは御所や二条城出入りの御用を務めたという。そのなかでも竹屋が多かったので「竹屋町」の通り名が付いたといわれる。

 

寺町通り竹屋町を下がった東側に行願寺という天台宗の寺がある。この寺は西国三十三霊場十九番札所で、別名「革堂さん」という名で親しまれている。この名前の由来は平安時代の中期、創建者である行円(ぎょうえん)が寒暑を問わず、鹿皮の服を身に着け、遊行したことから皮聖とよばれ行願寺も革堂・皮聖寺の名で知られるようになった。寺の前には「一条かうどう」という石碑があるが、中世の兵乱時に寺町今出川に移ったが、三転して現在地に移った。この石票は元来革堂が一条通にあったことを示すもので、藤原行成の文字と伝えられる。

 更に西に行くと、路は堀川通りと交差するが、ここから300メートルほど二条城の北側の堀に沿って路は延びている。その二条城の北西の竹屋町美福通りの角に「二条児童公園」という、小さな公園がある。その公園の一角に「鵺池」と呼ばれる小さな池がある。この池は、平家物語の巻四に記述されている源頼政による「鵺退治(ぬえたいじ)」の伝説を伝えている。鵺伝説は二つあり、一度目の話は平安時代の後期、時の天皇であった近衛天皇が、ひどくうなされる夜が続いたある夜の丑の刻に、警護の者が鳥とも獣とも解らぬ奇妙な声を聞き、東三条の森から黒雲が湧き出で、清涼殿の上を覆いつくす光景をみる。それを聞いた天皇は、武勇で名の知れた源頼政にその原因をつかみ、得たいの知れぬ怪物を退散させることを命じる。頼政は神明神社に成就の祈願を行い、清涼殿を覆う黒雲に向かって「南無八幡台菩薩」と念じ矢を放つと、奇妙な声をあげ、頭は猿、胴体は狸、尻尾は蛇、手足は虎という妖怪が庭先に落ちてきたといわれる。また二度目は、後年の二条天皇の頃、天皇をおびえさせた怪鳥を頼政が退治したといわれる。この場所には元禄年間には京都所司代屋敷が置かれたが、明治維新に獄舎となり、獄舎が移転された際に池の跡が出土した。二条児童公園の北側NHK京都放送局の脇に「鵺大明神」と呼ばれる小さな祠がある。この祠がいつの頃に出来たのか解からないが、妖怪をも祀ってしまう都人の懐の深さを感じる。鵺伝説は後年、能や歌舞伎、そして浄瑠璃の題材にされる等、わたしたち日本人にとって、印象深い伝説であったようだ。

京都の通り名のわらべ歌の歌いだしに「まるたけえびすにおしおいけ・・・・・」というのがある。京都の東西の通り名を織り込んだこの歌は、丸太町通りから十条通りまでを北から順に網羅している。この歌は通り名に迷ったときなどに結構役に立たち、今でも京都の人々に親しまれているが、この歌の最初に登場するのが丸太町通りである。丸太町通りは、東は東山のふもとの鹿ケ谷通りから、西は西山のふもとの嵯峨に至る京都の東限から西限を貫く長い大路である。平安京造成時は「春日小路」にあたる路で、その当時の東限は、現在の東大路通りにある熊野神社までで、西限は千本通りと堀川通りの中間にある日暮通りまでであった。その後時の変遷を経て鹿ケ谷通りから、JR花園駅付近まで延長されたが、昭和40年頃に更に嵯峨小学校の前まで延長された。丸太町の地名は、現在の堀川通り付近にあたる場所で、堀川や小川を用いて筏や貯木の丸太を荷揚げしていたことに由来しているといわれているが、もうひとつの説として、鴨川に架かる丸太町橋の架け替えの際、近隣の人々が丸太を寄贈したところに由来するというのもある。

 

丸太町の東の基点になる鹿ケ谷通り近辺には、永観堂や南禅寺といった京都を代表する古寺名刹が多く、秋の紅葉のシーズンともなれば、多くの観光客が訪れる。丸太町通りを西に白川通りを越えた付近の北側に「親鸞聖人御草庵遺跡」という石碑がある。浄土真宗の開祖親鸞は、31歳の頃にこの地に草庵を結んだといわれている。念仏信仰への弾圧が強まる中、親鸞は越後に流されるが、この地から流刑の地に旅立ったといわれている。そのほとりにある小さな路を北に入ると、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に至る。京都の人たちは「くろだにさん」と呼び、知恩院と並ぶ浄土宗の本山寺院である。金戒光明寺は会津藩とのゆかりが深く、幕末の文久2年に藩主・松平容保が京都守護職に就いたとき、この寺を守護職の本陣とし、会津藩兵1000人が常駐したといわれている。境内に会津藩士の墓所があるが、「鳥羽伏見の戦い」で命を落とした多くの会津藩兵の菩提が弔われている。

 丸太町通りにもどり、更に西に行くと東大路通りと交差点の北西角に「熊野神社」がある。熊野信仰から発した神社と思われるが、この境内に「八ツ橋発祥地」という碑がある。「八ツ橋」は言わずと知れた京都を代表する土産物であるが、筝曲八橋流の祖であるとされる八橋検校の墓のある黒谷で、琴型の煎餅を売ったのが始まりとも、黒谷の茶店の主人が夢で検校から製法を習ったともいう説もある。いずれにしても真意のほどは定かでないが、お菓子にまつわる碑というのが存在するのも、京都ならではのものである。

 

路を更に西に行くと、鴨川に架かる丸太町橋を渡る。その橋を渡り2~30m行った北側に鴨川に沿った路に降りる路がある。その路を降りきったところに「頼山陽書斎山紫水明処(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ)がある。この建物は江戸後期の儒学者・頼山陽が晩年に過ごした書斎で、鴨川に面して東山が望めたので「山紫水明処」と名付けられたという。頼山陽は芸術にも造詣が深かったが、萱葺きの平屋の佇まいは、儒学者としての燐とした生き方と、無駄なものは一切排した頼山陽の芸術志向を感じさせる建物である。見学も出来るそうであるが、事前の申し込みが必要という。

 

京都御苑の木立を右に見ながら、路をひたすら西に行くと猪熊通りを過ぎた南側に「京都所司代屋敷跡」の石碑が立っている。京都所司代は朝廷を始め、西日本支配のための江戸幕府行政機関で、慶長6年(1601)板倉勝重が羅任命されたのを初代とする。江戸幕府最後の所司代は、新政府軍に最後まで抵抗を続けた会津藩主・松平容保が就いている。所司代屋敷は二条城北一帯の広大な敷地を持ち、上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷などからなっていた。現在は民家が密集し、そのおもかげは見られない。

 

更に路を西進すると、千本通りを越えた北側の銀行の前に「平安宮朝堂院跡」という碑と出会う。平安京造成当時の政治の中心はこの地域に集中していたが、朝堂院とは大内理の正庁で、天皇の即位等の国家的儀式や諸政を行う場所であった。また大内理の南に、その正門として朱雀門があったが、そこから羅生門まで、今の千本通り付近に該当する都の最大の大路である朱雀大路が通っていた。

 

西大路通りと交差する円町を過ぎ、更に西進すると「妙心寺前」という標識を目にする。そこから北方向に目を移すと威厳を正した妙心寺の南門が見える。妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山で、我が国にある臨済宗寺院6000か寺のうち、3500の寺を妙心寺派で占めている。山門、仏殿、法堂などの伽藍を中心に、周囲には多くの塔頭寺院(たつちゅうじいん)が立ち並び一大寺院群を形成している。

 

「妙心寺前」を約200?先に進むと「JR花園駅前」に到達する。そこから北に目をやると、こんもりとした丘が見える。「双ケ丘(ならびがおか)」である。双ケ丘はかつての平安京の北西限に位置していた。三つの丘が一直線に連なっており、北から「一の峰」「二の峰」「三の峰」と名付けられている。古くから貴族の別荘地が置かれ、特に文化人には好まれた場所でもあった。鎌倉時代後期、「徒然草」の著書で有名な兼好法師が庵を結び、この丘をこよなく愛したといわれている。また幕末の鳥羽伏見の戦いの直後、双カ丘の南端に官軍が鉄砲の射撃訓練所を作ったとされる。しかしながらこの施設に関する遺跡などは何も残されてはいない。路を更に進むと新丸太町に入り、人気の観光スポットである嵯峨・嵐山方面に至る。

 

 京都府道38号線(鞍馬街道)を北に、鞍馬の集落を過ぎると道はうっそうとした杉木立の中を通る。やがて険しく蛇行した道は花脊峠にさしかかる。花脊峠(759m)、この地を冬に訪れるとそれまでの道の風景は一変する。道は両側に雪壁をつくり、まさに雪国の風景となる。ここに降った雪は春の訪れとともに峠よりさらに北の佐々里峠を源流とする大堰川と合流して桂川に注ぐ。そして流れは京の都を迂回して北行きから西行きに向きを変え、亀岡を経て嵐山を通過してやがて桂川となる。

 険峻な花脊峠を一気に駆け下りると、最初の里である別所に出る。花脊は普通花「背」を使うが、正しくは花「脊」である。地名については諸説あるが、都を背にして行くからとか、或いは南に広がる都の背骨の山、また北山の懐に抱かれている等があるが、どれも定かではない。

 別所は古くは天台宗の念仏別所があつた。道端の福田寺〔曹洞宗〕は、かつて叡山三千坊のひとつといわれ、平安時代には北方弥勒浄土の地にある寺として信仰を集め、花脊経塚が営まれたという歴史を伝える。別所には70年代まではかやぶき屋根の民家が大半であったが、今は数えるほどとなり、代わりに若手芸術家の工房やレストラン等が点在するようになった。民家の表札は「藤井」「物部」が圧倒的に多く、土地の人は互いを名前で呼び交わしている。土地の人の伝承によると、藤原氏系列の物部氏が住み着いたと言い伝えられている。

 別所を北に川の流れに沿って行くと、やがて大布施に出る。京都の中心部から約1時間、京都市の行政機関の出張所や消防署等の官庁があるのを見て、ここが京都市左京区の一画である事が確認できる。ここ大布施は細長い花脊集落の中間点に位置し、花脊峠開通以前の水運合流点であるが、ここから筏を組み木炭や木材を運んでいた。ここを出た川は嵐山まで約140Kに達するが、下流の京北町の流域にかけては上桂川、南丹市園部町に入ると桂川、南丹市八木町から亀岡市にかけては大堰川、保津峡から嵐山までは保津川と名を変え、嵐山から再び桂川となり、やがて木津川や加茂川と合流して淀川となり大阪湾で長い水の旅は完結する。

 大布施付近には、清流にしか住まないという天然記念物のオオサンショウウオが生息している。オオサンショウウオは稚魚を餌にしているため、一方では川魚漁を営む漁業者にはやっかいな存在である。ひところ人々の口端にのぼったツチノコと名の付いた蛇のような幻の生物かいるが、どうもその形状からオオサンショウウオと見間違ったのではとの説がある。確かに形や習性から、陸に上がったオオサンショウウオをツチノコと思い違いをしたことは大いに考えられる。今もってチツノコは確認されず、一度は見てみたいものだと思うが、一方で深山に棲む、幻の生物のままでいてほしてと思うのは凡人の勝手であろうか。

 桂川の支流である寺谷川を上ると、大非山峰定寺(ぶじょうじ)に達する。藤原道憲〔信西〕が記した「大非山峰定寺縁起」によれば、この寺は平安時代の末の久寿元年(1154)、鳥羽上皇の勅願により観空西念〔三滝上人〕が創建したもので、十一面千手観音像を本尊として安置している。観空西念は大峰山、熊野で修行を積んだ修験者であった。そのため「鐘掛岩」「蟻の戸渡り」などと称する行場が点在し、古くから修験者の修行の場であった。 

 修験の行場として著名な大和の大峯山(奈良県吉野郡天川村)に対し、大悲山は「北大峯」とも呼ばれた。今も余人を寄せ付けない、修行の場としての凛とした空気を漂わせている。

 寺の門前には知る人ぞ知る隠れ里の料亭「美山荘」が、ひっそりと雅に暖簾を垂れている。当初は宿坊であったのを料亭にしたという。今でも著名作家等らが好んで訪れる名所になっている。京都市の最北の里、広河原能見口までは、1時間程の道のりである。細長く点在する花脊の里々は、今ものどかな山里の原風景と素朴な人情を留め、訪れる人に失われて行く日本の原風景を見せてくれる。
             
                           
「松上げ」                                    

 花脊の最北の里である広河原では、毎年824日に洛北の奇祭「松上げ」が行われる。河原や畦道に差し込んだ約1000本の松明に点火し、高さ20メートルの大傘に松明を投げ入れる勇壮な祭りである。「松上げ」は、若狭街道に沿った山村の村々に伝承されてきた愛宕信仰による献火の行事であるが、精霊送りと火災予防、農作物の豊作を祈願して行われる