椹木町通り(さわらぎちょうどおり)は、東は烏丸通から西は千本通りに至る路である。サワラの木材店が多かったことから、このような路名が付いたとされている。サワラの木は、ヒノキ科の植物で、外見はヒノキに似ているが、柔らかい材質のため柱などには使用されない。用途としては柄杓や桶、或いは障子の格子といったものに多く使用されている。茶の湯とゆかりの深い京都にあって、そのような道具のひとつなどに用いられていたのではと推測される。

 

椹木町通りは、南北の釜座通り(かまんざどおり)から油小路通り(あぶらのこあじ)とが交わる区間の地名を「東魚屋町」というが、昭和初期の頃まで十数軒の魚問屋が軒を並べていたという。しかし京都中央卸売市場の開設により、魚問屋の歴史を閉じた。また椹木町通り油小路の北東角には、現在も上京区に住む人々に美味しい豆腐を作ることで知られる「入山とうふ店」がある。豆腐は良い水が無ければ出来ないとされているが、この界わいには「滋野井(しげのい)」と呼ばれる名水の水脈が流れ、その水を用いて豆腐は作られている。この路筋は信長・秀吉の頃に発祥した楽市楽座の後ともいわれ、その歴史をそこはかと感じさせている。

下立売通りの基点の南西角に「平安女学院」がある。この学院はカトリックの聖人とされる聖アグネスを仰ぎ、米国聖公会から派遣された牧師により開校された。その一角に十字架をいただいたレンガ造りの建物がある。「聖アグネス教会」である。明治311898)年、アメリカの著名な建築家ジェームス・マクドナルド・ガーディナーの設計により建てられ、現在は京都市指定有形文化財に指定されている。また南隣、下立売御門の前には「菅原院天満宮」の小さな祠がある。この地は菅原道真(すがわらみちざね)の曽祖父である菅原古人(すがわらふるひと)の邸宅「菅原院」があったとされ、石鳥居横には「菅原邸跡」の石碑が建つ。また菅原道真はこの地で誕生したといわれ、境内社務所北に「菅公御産湯の井」という石碑と井戸がある。

 

平安女学院の前を過ぎ、油小路と交差する南西角に「旧二条城」跡」の石碑がある。この城は織田信長が永楽12年(1569)、室町幕府将軍・足利義昭のために造成した将軍御所である。広さは東は烏丸通りから西は新町通り、南は丸太町通りから北は下立売通りまでであったという。しかし天正元年(1573)義昭が信長に追放された後、取り壊された。京都御苑内にその石垣の跡が発掘され、一部が復元されている。

 

路を更に西に行き新町通りを越えると南に京都府警本部、北に京都府庁の正門が見えてくる。この京都府庁の門越しにバルコニーを持ったルネッサンス風の建物が垣間見える。この建物は明治37年に建築された京都府庁の本庁で、現在は国の重要文化財に指定されている。またこの界わいには石碑が多いが、そのひとつに京都府庁の正門をくぐって西側に「京都慶応義塾跡」という石碑がある。関東の方には以外かもしれないが、東京の慶応義塾の分校として明治7年(1874)、福沢諭吉により開校された。当時、福沢と親交のあった京都府参事・槇村正直の斡旋により、この地にあった京都府中学校の一部を借りて開校された。しかし同年の9月には廃校になったという。この他にも京都府庁の正門前には「明治天皇所京都府庁」の碑や、府庁を入って東側に「京都守護職屋敷跡」の石碑がある。

 

堀川通りを過ぎ、歩を西に進めると西陣地域を入る。更に千本通りを過ぎて進むと七本松通りに達する。この界わいでは出水通りと同様に道すがらに小さな寺々に出会う。これらの寺は有名寺院ではないが、閑静な佇まいの中に、宗教施設としての本来の厳かさを感じさせている。

戦後まもないこの時代、我が国はアメリカ占領軍による統治を受けていたが、私が育った東山界隈も、アメリカ軍のジープやサイドカーが、砂埃を上げて我が物顔で往来していた。町のはずれには、京都では珍しいレンガ作りの洋館の家が一軒あり、その家にはアメリカ兵と、その腕にぶら下がるように腕を組んだ“オンリー”の女性たちが出入りをしていた。

往来で男女の痴話喧嘩や、ふざける様を毎日のように目にしていた近隣の子供たちは、何となく男女の営みを知っていたようで、概して他の地域の子供よりませていたように思われる。だからそのような光景を目にしても、慣れた目でみて、およそ子供らしからぬ子供であったような気がする。

当時の進駐軍の兵士は、私たち子供には優しかったように記憶している。道端で遊びに興じている私たちに兵士たちは、そっとポケットにチューインガムやチョコレートをしのばせてもくれた。たぶん彼らも遠い極東の地で、祖国に残した子供に思いを馳せていたのかもしれない。

ある時、アメリカ軍属の家族と思われる車が往来でパンクした車輪を、金髪の女性がタイヤ交換をしていた。それをそばで眺めていた私に、彼女はトランクを開け、茶色の大きなハトロン袋を取り出し、私に差し出した。日頃、母親から人から施しを受けるなと聞かされていた私は、一瞬躊躇をしたが、目の前の誘惑を抗しきれず、気がつけば受け取っていた。

母親に叱られるのを覚悟に家に持ち帰り、いきさつを訴えたが、母は黙って横を向いた。袋を開けてみると、今までに見たこともないチョコレートやマシュマロ、ゼリーのような、色とりどりのお菓子がぎっしり詰まっていた。日ごろ粗食に飼い慣らされていた私は、それを食べたときに、「世の中にこんな美味しいものがあったのか」と子供心に感じたことを今も思い出される。

それまでに進駐軍の兵士からチョコレートやチューインガムはもらってはいたが、多種多様に、しかも大量な菓子が詰まった菓子袋は、子供心にアメリカという国のすごさを強烈に植えつけられたのが思い出される。