平安京の昔、大内理は現在の千本通り丸太町付近に置かれていた。そしてその大内理の入り口が朱雀門であった。その朱雀門から南に向って都のメインストリートである朱雀大路が平安京の入り口である羅生門まで続いていた。

 当時の平安京の都市図は、この朱雀大路を堺にして西側が右京、東側が左京と呼ばれていた。また平安時代の中期頃から生活の中心は左京のみに偏り、右京は荒地のまま放置されるに至ると、この朱雀門周辺も、昼に通るのも恐ろしい所と化していたといったという。「今昔物語」には、ある男が昼の日中、朱雀門の前で女に化けた狐に誘われ、夜に至って友寝をした話が記述されているが、しばしば化け狐の類が徘徊していたと伝わる。

 

 鎌倉時代の著書「糸竹口伝(しちくこうでん)」によると、平等院の宝蔵に収められ銘笛「葉二(はふたつ)」は、醍醐天皇の孫である従三位・源博雅が朱雀門の近くで、鬼と笛を取り替えて吹き、そのまま持ち帰った笛とされ、それゆえに「朱雀門ノ鬼ノ笛」とも称されたという。源博雅といえば、大ヒットした夢枕獏氏の小説「陰陽師」の安部清明の盟友として、頻繁に登場する人物であるが、笛や琵琶といった楽器を自在に操る、風流人であったようである。

 鎌倉中期の説話集である「十訓抄(じゅっきんしょう)」には、博雅が鬼と笛を取り替えた話しが以下の内容で紹介されている。

【時は平安の中期、月の明るい夜の事、源博雅は直衣(のうし)姿で朱雀門の前で笛を吹いていた。すると同じように直衣姿で笛を吹いている男と出会う。そしてその男が吹く笛はこの世のものとは思えない素晴らしい音色であった。

 博雅は誰なのか、いぶかりながら近づくが、始めて会う人物であった。その日は互いに声も掛けずに行過ぎるが、それからというもの、月の明るい夜に博雅が笛を吹いて歩くと、必ずその男と出会う不思議が続く。

 博雅はその男の笛の音を聴くほどに虜となり、ある夜、博雅は自分の笛と男の笛を取り替えて吹いてみた。素晴らしい音色に魅せられた博雅は返しそびれて、その日はそのまま笛を取り替えたままで帰宅する。その後も男と同じように出会うが、笛を返せと男も言わないので、そのままになっていった。時を経て博雅も亡くなった後の事、帝が笛の盟主たちを集めてこの笛を吹かせてみたが、博雅と同じ音色を奏でることが出来なかった。

 そのころ浄蔵(じょうぞう)と呼ばれる笛の名手がいることを知った帝は、この笛を浄蔵に吹かせてみた。すると博雅の音色に劣らない素晴らしい音色であった。そして帝は浄蔵に向ってこのように命じた。「以前、博雅がこの笛を朱雀門のあたりで手に入れたと聞くので、お前もそこで笛を吹け」。浄蔵は命に従いその笛を朱雀門の前で吹くと、門の楼上から「なんと逸品かな!」と大きな声が降りてきた。この笛が鬼の笛であることを悟った浄蔵はこの事を帝に報告し、それ以来この笛は「葉二」と名付けられ、天下一の名笛と呼ばれるようになった。

 その後笛は藤原道長に受け継がれ、道長が宇治平等院を建造したとき、宝蔵に収められた。】

 この話しから想像するに、朱雀門に住む鬼は、人間を捕って食うような恐ろしい鬼ではなく、名笛・秘曲の伝授者で、かつ音曲の最高の鑑賞者であったようである。浄蔵が笛の名手であった確たる証拠は存在しないが、平将門や菅原道真の怨霊に通じた祈祷上手な高僧であったことが、このような伝承話を生んだと思われる。鬼が住んだとされる平安京朱雀門は、JR二条駅前付近にあったと思われるが、現在では交通量の多い賑やかな地域となり、昔を偲ばせるものは何も存在していない。

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