一見して茶器にしか見えないこのお菓子は、器そのものが干菓子から出来ています、中にも一口サイズの御干菓子と麩焼き煎餅がセットになっていてお点前としも愉しめます。またこの茶寿器は、日本人が古来より大切にしてきた「観る」「聴く」「味う」「触る」「嗅ぐ」の五感で味わう京菓子作りの精神が生きています。「茶寿の器」は、茶人を始めとして、粋を愛する多くの人から絶大な支持を得て、甘春堂を代表する銘菓となっています。
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一見して茶器にしか見えないこのお菓子は、器そのものが干菓子から出来ています、中にも一口サイズの御干菓子と麩焼き煎餅がセットになっていてお点前としも愉しめます。またこの茶寿器は、日本人が古来より大切にしてきた「観る」「聴く」「味う」「触る」「嗅ぐ」の五感で味わう京菓子作りの精神が生きています。「茶寿の器」は、茶人を始めとして、粋を愛する多くの人から絶大な支持を得て、甘春堂を代表する銘菓となっています。
この地域の古文書や言い伝えによると、時は南北朝の時代、政争に敗れ出家した光厳法皇は、現在も京北の名刹のひとつされる常照皇寺(じょうしょうこうじ)を開山した。質素な生活を送りながら、厳しい修行に取り組む法王の姿を目にした里人は、味噌を作るためのみそ豆を、わらで作った袋状のものに入れ献上した。法王は里人の献上品を少しずつ大切に食べていたところ、豆が糸を引くようになる。里人のこころざしの豆を粗末に出来ないと考えた法王は、それに塩をかけたところ、大変美味しくなり、これが納豆の始まりとされている。それを逆に里人に振舞ったことから、この地域に納豆が広まったという。常照皇寺に在る光厳法皇の生涯を描いた絵巻物には、納豆の絵が描かれているという。また地域に昔から伝わる子守唄の中にも、納豆が登場している。
この逸話はさておき、何故、この地域で納豆が生まれ食されてきたかを考えるに、山間部のため魚類などの蛋白源に乏しく、大豆からの蛋白質を大きな栄養源にしてきたため、大豆をより美味しく食す生活の知恵から生まれたものと思われる。またこの地域の冬は雪深く、特に納豆を寝かせる時期の冬の気温が適していることも大きく関係していると思われる。
現在も正月の三が日は、餅に納豆を包んで「納豆もち」として食されている。この「納豆もち」は、近隣の日吉町や美山町、また左京区の大原や花背でも食されていて、地域により微妙に食し方が違うという。いずれにして納豆は、伝統的な食文化として、今も地域の人々に愛されている。
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京都西山(乙訓)地域で栽培される竹の子(筍)は、日本一との評価があるが、それには理由があ.る。良い竹の子が出来る条件として、土壌と日当たりの良さが挙げられ、京都の西山地域は日当たりの良い丘陵が多く、水はけの良い酸性土壌に恵まれている。しかしそれだけでは美味しい竹の子は出来ない。竹の子畑は一年を通じ、徹底的に管理される。
冬の間は竹の子畑一面に麦わらが敷き詰められる。その上に保水性の良い赤土重ね、ふんわりとした土を育てる。これを置き土という。こうすることで、雨も土の中に良く浸み込み、竹の地下の茎にもふんだんに水分が補給される。また土の中に敷いたわらの間には適度の空気が含まれ、時間の経過と共にわらは土と同化して質の良い肥料となる。こうして竹の子にとって最高の環境で育つので、肉質が柔らかで美味しい竹の子が出来上がるのである。
竹の子畑は収穫時期になると、親竹にするために残す竹と収穫する竹の子に見分けられる。そして収穫が終わる頃、親竹への栄養を充分に行きわたらせるため、育成の悪い竹や不要な下草の刈り取りが行わる。この作業は秋の頃まで2日に一度行われ、これを地域の人は「ムシャクシャ狩り」と呼ぶ。そうして残された親竹同士の間隔が2メートル以上になり、その適度な間隔のお陰でお互いの成長を邪魔せず、充分な日光も確保される。この他にも5月の中旬には、親竹が5~6メートルになると、根の成長を助けるため、先端が切られて葉や枝の成長を止め、日照効果と風で竹が折れるのを防ぐ。
このように徹底した管理の下で育まれた竹の子が、朝に掘られ、その採れたてを皮付きのまま釜茹でされたのが「釜ゆでたけのこ」である。魚でも鮮度を保つために”如何に早くしめる”かが勝負になるが、竹の子も同じで、掘りたてをすぐに釜ゆですることで、より美味しさが保たれる。このように多くの人の努力と情熱から生まれた竹の子が、美味しくないわけがないことを充分に納得していただいたと思う。
京都西山産の「釜ゆで竹の子」は、「特選京都」で販売している。時期と数量に限りがあるので、早めの申し込みが必要である。
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