京区の七本松通と出水通りが交差する付近に小さな寺院が在る。浄土宗観音寺と言う寺である。この寺の門は、立派な楠木の一枚板で作られているが、門には次のような伝承が伝わっている。豊臣秀吉が贅を尽くして建てたという桃山時代最大の建築物であった伏見城、この門は、その伏見城内の牢獄門であったという。華美なものを好み、牢門にさえ金力を惜しまなかった秀吉の気質がうかがえるが、豊臣家滅亡の後、伏見城は徳川家康が入り、華美なものを嫌った家康は、城門は西本願寺に、そして牢門は観音寺に移設した。

桃山時代の特徴は、海外との交易の活発化などにより、雄大豪華な文化が花開いた反面、庶民は戦や築城による徴税に苦しみ、浮浪や盗人が横行し、京の治安はいちじるしく悪化していた。そこで権力者は、軽微な罪人はこの門の前で「百たたき」の罰を与え、解き放ったという。この罰には「二度とこの門をくぐるな」との意味があったと思われるが、劣悪な環境の牢内で衰弱し、青竹で打たれる罪人の中には血を吐き、息絶えた罪人もあったという。

 この牢獄門が、何故観音寺に移設されたかは、天明の大火のため、創建当初の記録はない。しかしこの門にまつわる伝説は口述で伝えられてきた。それによると、現在の場所に移されてから「観音寺さんの前を通ると、人の泣き声がする」が近隣の人に広まり、いつしか夜になると、めっきり人通りが絶えるようになる。

そのうわさを知った住職が原因を調べると、風が吹くたびに扉の片隅にある小さな「くぐり戸」が自然と開き、すすり泣くような悲しい人の声が聞こえた。住職は「罪人の霊が乗り移っているに違いない」と考え、百日間にわたって食を断ち、念仏を唱え続けたところ、人の声はしなくなったという。

 現在の住職は朝晩、門の開け閉めをするが、「くぐり戸」だけは開かれないという。当時の住職が釘付けをしたからである。今も「出水の七不思議」のひとつとして、京の人々に伝承されている。


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 歴史上の三大怨霊というのがあるようである。一人には天神になった菅原道真、もう一人には白峰神社に祀られている魔王と恐れられた崇徳院、そして平将門(たいらのまさかど)である。

関西では、平将門はあまり人気がないようで、京都でも将門に関係する史跡や伝説が少ない。関東では怨霊といえば菅公よりも将門の名が挙がるようで、関東地域では将門に纏わる史跡や伝説が多く、また謎の多い人物でもある。そんな京都にあって、下京区の四条通を南の綾小路通りへ少し下がった路地に「神田明神」と呼ばれる将門に関係した祠がある。

外観は神社というよりも、紅殻格子(べんがらごうし)の京都によく在る町屋で、「史蹟将門塚保存会」という旗が目印になっている。坂東の地で、藤原秀郷(ふじわらひでひさ)及び従弟の平貞盛(たいらのさだもり)らとの戦に破れ、討ち取られた将門の首が平安京に送られ、ここで晒されたと伝わっている。



 平将門は、桓武天皇を祖としと、天皇から数えて五世の平安時代中期の豪族として生まれた。正確な生年は不詳であるが、生国は千葉県の佐倉市と思われる。討ち取られた年齢が38歳とされていることから、延喜3(903)の生まれではないかと思われる。

156歳の頃、平安京に出て、藤原北家の氏長者であった藤原忠平に仕えた。公家政治全盛の当時の武士階級は、桓武天皇の子孫といえども地位は低く、同じ桓武天皇を祖とする平清盛が政治の実権を握るまで、約250年を待つことになる。将門は、当時の武士階級としては地位が高いとされた警察機構である検非違使を管掌する高官を望んだようであるが、思いが叶わず坂東に帰ったとされている。それを恨みとして、朝廷に反抗したとの説もあるが、これも定かではない。

埼玉県から茨城、千葉にかけて、将門を始め叔父である平国香(たいらのくにか)と、その子貞盛ら平氏一族が血で血を洗う土地争いから始まった抗争は、やがて関東全域に広がる。一端は朝廷の調停等で休戦状態になるが、常陸国府と将門との争いから、坂東の一部地域を制圧した将門は、遂には京都の朝廷に対抗して自らを「新皇」と称したことで朝敵となる。そして朝廷の命を受けた平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲の軍との戦いに敗れ、そして首のみが京に送られ、この地で晒されたのである。

これも伝説であるが、その後何度石碑を建てても壊れることを知った空也上人は、この地に祠を建て手厚く供養したと伝わっている。この地に晒された将門の首は、関東に飛び帰ったという伝説もある。この祠のある建屋の中に、蛙の置石が在るが、「帰る=カエル」にひっかけたものであろう。比較的新しいところをみると、誰かが将門への鎮魂に置いたものと思われる。日本三大祭のひとつ東京の神田祭で有名な神田明神も、祀神の一人に平将門がいるが、そんなところからこちらが本家との説もあるようだが、これも定かになっていない。



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 東山三十六峰のひとつに華頂山が在る。標高215メートルの山で、その西麓には浄土宗総本山の知恩院や円山公園等があり、東麓は山科区の日ノ岡に接している。平安京の昔よりこの華頂山の頂は「将軍塚」と呼ばれ、京の都にとって大切な場所とされてきた。将軍塚は正確には頂に在る青蓮院門跡別院「大日堂」境内内の一角に在るが、その由来は平安京造成時まで遡る。 

言い伝えでの一説では、桓武天皇は平城京より長岡京に都を移したが、近辺に不慮の事故が相次いだ。後に平安京造成の責任者となる和気清麻呂(わけのきよまろ)と共に、ある日この山の頂を訪れた天皇は、京都盆地を見渡し、四神相応の地として都をここに定める決心をしたといわれている。四神相応とは、中国から渡ってきた風水の思想で、東西南北を護る聖獣が揃うことを言う。背後に山、前方に海、或は湖沼、河川の水(すい)が配置されている地形を背山臨水といい、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで、風を蓄え水を集める蔵風聚水の形態となっていることを理想とした。これを京都盆地に置き換えると、北に丹波高地の玄武、東の大文字山 を青龍、西の嵐山を白虎、南にあった巨椋池 を朱雀とする対応付けが可能で、風水上では申し分ない地形であったようだ。

平安京をこの地に定められた天皇は、造成に着手するが、永く都が護られる祈りを込めて、風水に加えて更に北、東、西の三方の山に2,5メートルの甲冑を着、弓を持たせた土製の武将を埋めた塚を作った。これが将軍塚である。現存するものはこの華頂山の頂きのみのものである。また武将の人形のモチーフは、蝦夷地での武勲があった征夷大将軍・坂上田村麻呂といわれている。  

この塚には古来より言い伝えがあり、都に異変の起こりそうなときに鳴動すると言われている。源氏と平家の興亡を記録した「源平盛衰記」には、源頼朝が平家に叛旗を翻し、坂東の地で挙兵する前年、晴天がたちまちかき曇り、将軍塚が三度鳴動し、空に兵や馬の駆ける音が聞こえたと記されている。他にも南北朝の争いのときには、新田義貞がここに陣を敷き、足利尊氏を破った場所としても知られている。また近年では太平洋戦争下には、飛来するアメリカ軍の爆撃機の迎撃を目的として、高射砲が置かれたという。

大日堂の境内にある将軍塚は、直径78メートル程の円形状の小高い土盛りのものである。ここには東山ドライブウェイと呼ばれた道を使い行くことが出来る他、徒歩では円山公園付近からと護国神社の裏山、山科の日ノ岡からも登ることが出来る。大日堂の境内のため有料であるが、中には見晴台もあり、京都市内の眺望が楽しめる。



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