禅語 | あきらのブログ 一期一会 

























※大幅に削除いたしました。今と昔では、状況が違う点と、文章には責任があります。ご容赦下さい。


そういえば、休みの嵯峨嵐山の天龍寺の庭園を拝観に一度行こうと思いました。ここは、練習で、渡月橋から泉大橋や開橋などまで、駅のコンビニでおにぎりとサンドイッチとポカリと水を2本購入して、少しだけ、立ち寄るお寺でした。このお寺の『雲龍図』に興味があり、法堂に描かれた雲龍図を眺めて、渡月橋で、準備運動して、ゆっくり楽しく走っていました。自宅まで、42㎞ありますから、ちゃんと、トイレと、足を痛めた時に帰れる手段の公共交通を確保して走ります。4時間、5時間もかけて走るので、願掛けは、法堂の雲龍図でした。

 

法堂の雲龍図をゆっくり眺めて、あの頃の感謝の念は堪えませんでした。僕は、たぶん、お酒が下戸だから、大半の抗鬱剤は、飲めないのだと思います。

 

本堂と庭園もチケットを買いました。庭園500円、本堂300円、法堂500円でした。

 

本堂に入ると、韋駄天様が居て、心経を唱えていました。本堂には、釈尊を本尊としています。釈尊の真言を唱えていました。別に、『南無大師遍照金剛』でもいいと思います。

 

少し歩きますが、御醍醐天皇の坐像があるところまで行きました。『資聖』と書いてありましたが、意味が分からず、受付で聞くと、天皇を助けることのようでした。

 

でも、達磨さんの掛け軸ともう一つ、禅語がありました!

 

『莫妄想』

 

妄想することなかれ。悟りを得るためには思惟分別する心を放棄せよということ。

 

という意味らしいです。

 

僕のように、不定愁訴やうつ状態の悪化の繰り返しも、他人の因縁もあるでしょうけど、もっと大切な自分の心を正して、天龍寺に正気を戻した気分でした。

 

禅寺というのは、黙って坐るという姿勢で、仏教でも、自力で、厳しい宗旨ですが、本当に、こういう正気を失っているときは、一度、整理しないと、間違った『本末転倒』で人に迷惑をかけることもあります。

 

それと、外に、観音様が祀られており、胎内に般若心経3万巻を納めて作られた飛雲観音様で、薬師寺などを信仰する僕には、とても、貴重な出会いでした。

 

心鎮めて、目的地は、清明公の嵯峨野墓所を目指して、なんとなく、心鎮めたほうがいいと、禅寺に行き、人は、多いですが、庭園が、宇宙のような立体曼荼羅の世界でした。

 

東寺さんでいう講堂の立体曼荼羅しか知らない僕には、天龍寺で、立体曼荼羅の世界にいるように思いました。

 

これは、僕の感想なので、庭園が立体曼荼羅と表現することは、東寺さんに失礼になるので、僕の価値観で表現した場合です。

 

【悲雲観音】

空を旅する人々を守護する「悲雲観音」国籍・宗教の別なく、世界平和と空の安全を祈るべく、左手に十字架を刻んだ火焔宝珠(かえんほうじゅ)を持っています。

 

僕は、この御守を買いました。

 

人には、色々な思想があります。牛を食べられない宗教、他宗教の願いを託さない宗教、政治に直結する宗教、イスラム教、キリスト教、仏教など、僕は、仏教徒であると思います。

 

今の世界情勢は戦争や紛争ばかりで、日本仏教の祖である聖徳太子の教えからは、到底かけ離れたものです。聖徳太子の教えが一番強いのは、僧では、法隆寺と諭されます。

 

僕は、Sを辞めると決断する前に、マラソンの師匠から、叡福寺にお参りしなさいと言われていました。一緒に行ってあげようかと言われていたが、一人立ちしないといけないので、そんな甘えでは、Sを辞めた後、呪詛されるのは分かっていたので、真剣な気持ちでお参りするときは、『一人』でいくようにしています。

 

 

大事な決断を出すときは、寺社に限らず、

『一人』

で、道ゆく人に助けを求めても、一人でいくことが、

『自立』

だと思っています。

 





#対立より調和

#達磨安心