臣下に弑逆された天皇を祀る神社 ~ 堀越神社 ~ その2 | KANSAI SANPO

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四天王寺(大阪市)

 

 

前回からのつづきです。

四天王寺は、日本初の本格的仏教寺院である法興寺、豊浦寺に次いで

厩戸皇子(聖徳太子)によって建てられた飛鳥時代の寺院です。

法興寺(現在の飛鳥寺)と豊浦寺(現・向原寺)は、

当時、政治の中心地であった明日香の地に建てられています。

では四天王寺がなぜ大阪に建てられているのか。

飛鳥時代には上町台地のすぐ手前まで海であったと言われています。

四天王寺はその上町台地の頂点に建てられています。

そして難波津から大和へ向かう拠点に位置していました。

現在でも四天王寺の真ん前には、

物部氏の拠点である河内から斑鳩・大和に通じる国道25号線が通っています。

つまり、四天王寺は大和への西の玄関口にあたるのです。

朝鮮半島からの使者を含め、九州や吉備方面から大和に入る人々は

陸路からも海路からも、

難波の地でこのそびえ立つ四天王寺の伽藍を見上げたことでしょう。

四天王寺はランドマークでもあり、

大和の国力を示し、大和が仏教国であることのアピールでもあったのでしょう。

 

 



古代のランドマーク四天王寺五重塔と現代のランドマークあべのハルカス

 

 

 

堀越神社・拝殿

 

 

しかし、堀越神社は違います。

崇峻天皇は難波を拠点としたわけでもなく、支援した氏族がいたわけでもないようです。

臣下に暗殺された天皇を祀る、そしておそらくは怨霊となりうる天皇を祀る神社。

その堀越神社がこの地に鎮座する理由は、

四天王寺の存在と関係があるとしか言いようがありません。

そしてその四天王寺は、厩戸皇子(聖徳太子)建立の寺です。

 

 

 

 

法隆寺

 

 

 

その厩戸皇子の寺と言えば、法隆寺ですね。

現在の法隆寺は、厩戸皇子が薨じて1世紀以上たってから再建されたものです。

日本書紀の天智9年紀に、

「法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた」という記述があります。

現在の法隆寺の西院伽藍の東部に、

講堂・金堂・塔が一直線に並ぶ「四天王寺式伽藍配置」の遺構が発見されました。

若草伽藍と称されるこの遺構が、厩戸皇子の寺だと言われています。

 

 

 

 

 

 

 

さて、法隆寺は日本で最も有名なお寺のひとつですが

こののどかな斑鳩の里にはもうひとつ、全国にその名を知られるものがあります。

それは、あの藤ノ木古墳です。

発掘の結果、珍しく未盗掘の古墳であり

その副葬品は当時の支配者階級の人物のものと言われます。

発掘時には大々的に報道され、高松塚古墳の壁画と共に

古代史ブームのきっかけとなったとも言われるほどの発見でした。

被葬者の確定は出来ませんが、藤ノ木古墳の築造は6世紀後半と言われています。

法隆寺(若草伽藍)の建立と同時期、または若草伽藍の方が少し後ということになります。

法隆寺と藤ノ木古墳との距離はおよそ500m。

自身の家である「斑鳩宮」と若草伽藍をこの場所に建てることを選択した厩戸皇子が

藤ノ木古墳を意識していなかったと言う方が不自然でしょう。


2008年5月。

内部の調査を終え、整備が完了した藤ノ木古墳が一般公開されました。

期間限定で行われた公開ですが、一も二もなく参加しました。

1日に1600人限定で、石棺前の見学時間も制限されていました。

早朝から並んで整理券をもらい、内部を見学させていただきました。

一生忘れられない貴重な体験です。

上の画像はその時に撮影したものです。

他人の墓の中に入って興奮するのですから、

まったくもって古代史ファンというのは変人であります。


石棺は本物がそのまま安置されていました。

石棺前での見学時間は一人30秒。

その貴重な時間に、私は発掘に携わったと思われる学芸委員の方に質問しました。


「ここの被葬者は○○でしょうか?」

「・・・(一瞬沈黙)そういう説もありますねぇ」



これは想定通りの答え。


「厩戸皇子(聖徳太子)は、ここの被葬者を知っていましたよね?」

「それは間違いないでしょう」




聖徳太子の法隆寺は、この藤ノ木古墳を意識してこの地に建てられた。

そう言える可能性もあります。

古い伝承と、法隆寺から見つかった地図(江戸時代のもののようですが)では

この藤ノ木古墳は「ミササギ」と呼ばれているそうです。

「ミササギ(陵)」とは、天皇または皇后の墓と言われています。

現在の宮内庁でも、「陵(りょう)」と言われるのは天皇陵と皇后陵。

一部の例外はあるようですが、その他の皇族のものは「墓」と呼ばれています。

つまり、

「法隆寺は藤ノ木古墳と関係がある可能性があって、

その藤ノ木古墳は『ミササギ』と呼ばれていた」というわけです。

 

 

 

青〇で囲んだ辺りが若草伽藍跡

 

 

 

 

ところでこの法隆寺と藤ノ木古墳との位置関係は

四天王寺と堀越神社との位置関係ときわめて似ているのです。 (参考:上の地図)

法隆寺(斑鳩宮・若草伽藍)を建てた聖徳太子は藤ノ木古墳の被葬者を知っており

その聖徳太子が最初に建てた四天王寺の近くに

「わざわざ」崇峻天皇を祀る神社を建てた。

これが偶然の一致と言えるのでしょうか。


法隆寺に残る「陵」の記録については、

他にも御本尊・釈迦三尊像の台座裏から見つかった「落書き」

「相見了陵面未識心陵了時者」 が、あります。

 

漢文としては意味不明とも言われていますが

 

「死者の霊を鎮めるには、陵と相見(あいまみ)えなさい」

 

と訳する論者もいるようです。


では、藤ノ木古墳の被葬者は誰なのだ?

・・・と、考えながら

続きは次回と言うことで。