臣下に弑逆された天皇を祀る神社 ~ 堀越神社 ~ その1 | KANSAI SANPO

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堀越神社(大阪市天王寺区)

 

 

大阪市の南部、四天王寺の近くにある堀越神社。

 

小さな神社なのですが、

 

「一生に一度の願いを聞いてくださる」(ひと夢祈願)の神社として

 

どうやら親しまれているようです。

 

「どうやら」と曖昧な表現なのは、

 

30年ほど前に参拝した折にはそういう伝承は聞かなかったので・・・。

 

その初参拝時の印象はあまり良いものではありませんでした。

 

境内は荒れた感じがしていただけでなく、ホームレスの姿も見えたからです。

 

当時はまだ、神社巡りは趣味ではありませんでした。

 

古代史関連、聖徳太子のことを調べていた頃に参拝したようです。

 

この神社の御祭神は崇峻天皇・小手姫皇后・蜂子皇子・錦代皇女

 

つまり崇峻天皇ご一家です。

 

 

堀越神社公式HP

 

 

崇峻天皇陵(倉梯岡上陵)

 

 

崇峻天皇は聖徳太子がいた時代の天皇です。
 

崇峻天皇は臣下に弑逆された、少なくとも記録に残っている歴史上唯一の天皇です。

 

そして暗殺後は「殯(もがり)」 も行われず、

 

弑逆されたその日のうちに倉梯岡上陵に葬られたと日本書紀に記録されています。

 

延喜式には崇峻天皇陵について

 

「倉梯宮御宇崇峻天皇大和国十市郡にあり、陵地及び陵戸なし」 と記されています。
 

ちょっと、いくらなんでもあんまりな扱いではありませんか。

 

現在、宮内庁比定のその「崇峻天皇陵」は、奈良県桜井市倉橋にあります。

 

しかしそれはただの小山であって、墓ですらないとも言われています。

 

古墳研究の第一人者として知られた故・森浩一氏などは、

 

倉橋溜池の天王山古墳を崇峻天皇陵ではないかと言っています。

 

天王山古墳は大型の方墳で、いかにも蘇我氏関連の古墳です。

 

天王寺区にある四天王寺の近くの神社に祀られる天皇の古墳が

 

「天王山」という名称なのは、偶然にしても興味深いです。

 

 

 

さて、暗殺されたと思しき天皇は他にもいるのですが、

 

日本書紀などの正史に臣下による暗殺が明記されているのは

 

この崇峻天皇暗殺事件だけなのです。

 

崇峻天皇は「蘇我氏の傀儡(かいらい)天皇」などとも称されます。

 

後に即位した推古天皇の皇子、

 

竹田皇子までのつなぎ役だったとも言われています。

 

(竹田皇子は早逝したらしく政治の表舞台には登場しません)

 

しかし蘇我氏の傀儡であったにせよ、崇峻天皇暗殺事件に関しては

 

少々腑に落ちない点があります。

 

 

崇峻天皇5年、献上された猪を見た天皇は
 

「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」と言ったとのこと。

 

そしてなぜか武器を集め始めたと日本書紀に記されています。

 

このことが「憎い奴」と思われる蘇我馬子の耳に入り、

 

結局天皇は馬子が差し向けた刺客によって殺されてしまいます。

 

天皇が臣下によって暗殺されるというあり得ない事件なのですが、
 

一応つじつまは合った形にはなっています。

 

「崇峻天皇は馬子を憎んでおり武器を準備した→馬子は先手を打った」という構図。

 

しかしよく考えると、これは実におかしいのです。
 

日本書紀は天皇の命によって編纂された、天皇の歴史書。

 

天皇家にとって不名誉なことは徹底的に隠蔽されているはずなのです。

 

臣下によって弑されるなどという事態は、
 

天皇の権威を貶める不名誉中の不名誉な事件なので

 

最も隠したい事件ではないでしょうか。
 

日本書紀の編纂者が、ついうっかり隠しそびれて書いてしまったとも思えません。

 

馬子がいかに実権を握っていたとしても、天皇暗殺は考えられないのです

 

これより少し前、馬子は穴穂部皇子を殺しています。

しかしこちらは少々事情が異なります。

穴穂部皇子は敏達天皇の殯宮に押し入って皇后を犯そうとしたり、

皇后を護ろうとした寵臣・三輪君逆(みわのきみさかう)を物部守屋に命じて殺させました。

さらに用明天皇崩御後、穴穂部皇子は守屋と組んで皇位を狙いましたが

蘇我馬子によって穴穂部皇子は殺されてしまいます。

このあと、蘇我馬子と物部守屋との戦いへと続きます。

しかしそれは先帝の皇后、※炊屋姫尊(かしきやひめ)の命令という形をとっています。

日本書紀には次のように記されています。

「蘇我馬子宿禰らは炊屋姫尊を奉じて(中略)穴穂部皇子と宅部皇子を殺せと命じた」


※炊屋姫尊=のちの推古天皇

 

皇子を殺す時でさえ炊屋姫尊のお墨付きをもらっている馬子が、

崇峻天皇の暗殺を独断で行うことは考えられません。

いかに崇峻天皇が武器の準備をしていたとは言え、天皇の暗殺は反逆です。

この事件には、裏がありそうなのです。

私が考える「裏」は次の2つ。

 

 


・大化の改新後、蘇我氏に代って藤原氏が実権を握る正当性を説くための伏線
 (蘇我氏=天皇家をおびやかす存在)。

 

・日本書紀は表沙汰に出来ない真犯人を隠すために馬子を利用した※。

 

 

 

 

 

今となっては真実はわかりません。

上記2つのいずれかかも知れませんし、真相は別にあるかも知れません。

どちらにせよ、崇峻天皇は怨霊となるに十分の条件を備えています。

真犯人にとっては、何かあるたびに気が気ではなかったはず。

ところが、馬子や後の蘇我氏が鎮魂を行った形跡が見あたりません。

前述のように、崇峻天皇は竹田皇子までのつなぎ役であったとも言われますが

崇峻天皇の死後、次に即位した推古天皇の崩御のときの記述に

「竹田皇子陵に葬った」とあるので、

竹田皇子は母である推古天皇よりも先に亡くなっていました。

竹田皇子の早逝は、崇峻天皇の祟りと思われたかも知れませんね。

その崇峻天皇を祀る神社が、大阪の四天王寺の近くにあるというのはなぜなのか・・・。


そして意外な所で崇峻天皇の鎮魂が行われていた可能性があるのです。

長くなりましたので、続きは次回に。

 

 

※崇峻天皇を暗殺したのは聖徳太子だったという説があります←コレ重要