秋月城跡と宗像大社(前回の続きです) | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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吉野ヶ里遺跡の続きとなります。

 

次の目的地は「秋月」です。

そうです、「秋月の乱」の秋月です。

とは言っても知らない人の方が圧倒的に多いかも。

明治新政府に対して不満を持った士族(旧武士階級)が蜂起した事件が明治初期にいくつか起きました。

一番有名なのは明治10年に起きた西郷隆盛の西南の役(西南戦争)ですが、その前年の明治9年(1876年)に福岡黒田藩の支藩である秋月藩で起きたのが「秋月の乱」です。

あの乃木希典(乃木神社の御祭神、陸軍大将)率いる熊本鎮台によって制圧されて、首謀者らが斬首されています。

どうしても一度は訪れたかった場所です。(理由は後ほど)

福岡県朝倉市にあります。

吉野ヶ里遺跡からレンタカーで向かいました。

高速道路を目一杯使っても小1時間かかりました

駐車場は無人で良心に任せます

レンタカーを置いて徒歩で秋月城跡を目指します。

日本初の人痘種痘に成功した秋月藩医の緒方春朔の石碑

種痘というと牛の血清を使用する牛痘が有名ですが、その6年前に人の血清を使って予防接種に成功していたのです。

江戸時代でも地方の医師は頑張っていたのですね。

何しろ勉強熱心だったのだと思われます。

秋月城下の地図です

小江戸、という風情でしょうか?

平日という事もあって訪ねる人は本当にまばらでした

ここが往時のメインストリート、この道を通って武士が登城していたのですね。

「杉の馬場」と呼ばれる場所です

杉並木に対して流鏑馬などもしたのかも知れません。

往時は杉並木だったのが明治38年から桜並木になった、との事

明治38年の日露戦争の戦勝記念植樹でした。

秋月美術館

今回は時間的にパスしました

秋月藩の藩校「稽古館」があった場所です

江戸時代には各藩には必ず藩校があったのですね。

教育熱心な風土が昔からあったのが日本ですね。

 

僕の生まれ育った岩手県水沢市(現在は奥州市)には仙台伊達藩の傘下である水沢城(初代城主は伊達宗利、伊達政宗の従兄弟にあたる人物です)がありました。

治めていたのは留守伊達氏です。

おそらく石高が1万石以下だったので大名ではなく正式な藩ではなかったようです。

水沢には教育機関として「立生館」がありましたが、藩校ではなく郷校と呼ばれるものでした。

武家だけでなく町民にも門戸を開いていたそうです。

そこから輩出されたのが後藤新平や斎藤実です。

これに高野長英を加えて「水沢の3偉人」と水沢小学校で習いました。

郷土教育がしっかりしていたのだと思います。(現在も教わっていると良いのですが)

(高野長英は立生館で学んだかどうかは調べましたがわかりませんでした)

話が外れてしまいました。

秋月藩が出来てからちょうど400年でした

秋月藩医の緒方春朔が種痘を行った場所です

黒田家の祈祷所である天台宗日照院への道標?

菩提寺ではないようです。

「祈祷所」を調べると将軍や大名が祈祷を命じる寺院で密教系や禅宗系に多い。

天皇や公家の場合は祈願所と言う、らしいです。

祈願と言っても現代的な「・・・をお願いします」的なものではなく「・・・の願いが叶った暁には・・・・を奉納致します」的なギブアンドテイクだったようです。

ここもパスです

メインストリートを外れた方面にも見どころありました

こちらも時間の関係でパスです。

秋月城跡と垂裕神社は外せません

瓦坂です

ここを秋月藩士は通ったのですね。

たしかに土の中に瓦が見えます

歩きやすくした工夫ですね。

下部はこのような構造でした

軍勢の集合場所であった「勢溜」

現在は場所だけが残っていました。

秋月の名前の由来が書かれていました

平安時代の荘園の名前が由来でした。

福岡黒田藩主の黒田長政の三男の長興が秋月藩主となって以来、明治の廃藩置県までの246年続いた大名です。

5万石、ピンと来ませんが小さくはないと思います。

秋月八幡宮は946年の建立でした

由緒ある八幡宮です。

神功皇后とも縁があるようです。

しかし、ここも時間の関係でパス。

黒門は元々は秋月城の搦手門でした

その後、秋月城の大手門として移設され、更に明治13年に垂裕神社の門として移設されたそうです。

これが黒門ですね

確かに黒光りしていました。

もちろん「急な石段」を選択です

石の鳥居をくぐります

急な石段は良い運動になりました

垂裕神社に到着

垂裕神社は1857年(安政6年)に建立

まだ新しい神社でした。

御祭神は初代藩主の黒田長興公です。

秋月藩10代藩主の長元公が建立しました。

垂裕神社の拝殿と本殿

立派な造りでした。

慰霊塔もありました

日清、日露、大東亜戦争の鎮魂です

江戸時代に秋月藩に仕えた儒学者、中島操存斎の石碑

またしても教養の無さを実感しました。

何と記されているのか分かりません。

幕末期に公武合体論を説き、慶応4年に暗殺されています。

字が「仲強」でした。

秋月城跡は現在の秋月中学校になっています

校舎も茶系の2階建で周囲にマッチしていました

これも立派な長屋門

この長屋門だけが唯一、現地に残っている建造物だそうです

秋月城の裏門だったそうです。

 

帰り道に秋月博物館には立ち寄りました

秋月博物館の入り口

学芸員の方に「秋月の乱に関する資料はありますか?」と尋ねたのですが、ほとんどありませんでした。

少し、がっかり。

明治政府に対する反乱なので資料がしっかり残されていないのかもしれません。

ネットで調べたほうが良さそうでした。

種痘を行った緒方春朔氏の自画像(と思ったら写真コピーでした)

62歳で亡くなっているので、当時としては長生きな方だと思います。

元は久留米藩士で医家の緒方家に養子入りし、その後秋月藩医となった方です。

秋月藩主の家系図

秋月家では名前に「種(たね)」が付くのが慣わしのようです。

 

ここ秋月にどうしても来たかった訳はこの「種」が理由です。

僕が研修医(25歳でした)の頃にお世話になった方が秋月家の直系の方で、やはり名前に「種」がついていました。

医局では「世が世ならばお殿様だよね」と言っていました。

その方が秋祭りの時期になると福岡県朝倉市に行って行事に参加するのだと聞いていました。

そのような理由で是非行ってみたかったのです。

 

また、江戸時代に貧窮した米沢藩を立て直した上杉鷹山(治憲)も秋月家の方です。

左下が上杉治憲(鷹山)です(Wikipediaから拝借)

兄の秋月種茂が高鍋藩を継いでいます。

治憲は10歳で米沢藩上杉家に養子に入っています。

上杉治憲(鷹山)の母方の祖母が米沢藩4代当主上杉綱憲の娘だった縁です。

上杉治憲(鷹山)は秋月家の血を引いていたのですね。

アメリカのJ・F・ケネディー大統領も上杉鷹山を尊敬したと言われています。

その原典は内村鑑三著の「代表的日本人」だと言われています。

 

博物館の敷地内に藩校「稽古館」がありました。

稽古館跡の石碑も敷地内にありました

稽古館の見取り図

剣術や柔道の道場、弓砲道場、四書以上講義室など。

四書とは「大学 ・中庸・ 論語 ・ 孟子 」のことですが、「以上」というのはそれよりも高度な書物、という意味でしょうか?

いわゆる「四書五経」のことだと思われます。(間違っていたらごめんなさい)

「五経」とは「易経・書経 ・詩経 ・礼記 ・春秋」です。

講義室は「家老の子弟」は別の部屋でした。

身分の区別(差別?)があったのですね。

グレーの部分が現在の博物館の敷地です。

 

稽古館の隣には民家らしき建物がありました。

秋月藩士、戸波半九郎氏の屋敷でした

明治9年の秋月の乱で自刃しています。

知行300石という高禄の高級武士だったことが窺える屋敷との事。

7部屋あったので現在でいうと7Kでしょうか?

手入れはされていると思いますが、少し朽ちていました

茅葺と瓦葺きのミックスです。

左手にガラス窓もありますが、これは最近のものと思われます。

 

念願の秋月を訪れて、大満足です。

これから高速道路で福岡県宗像市に向かいます。

結構な距離ですが、安全運転で行きます。

目的は宗像三女神、周辺を含めて世界遺産になっています。

宗像三女神?、そう銅鏡の使い手です(という説ですが)

またユネスコです

「沖ノ島と関連遺産群」の中の宗像大社でした。

宗像大社の正面入り口

駐車場も広く、境内も広大でした。

宗像大社は九州本土にあるここ辺津宮(へつぐう)の他に大島にある中津宮、沖ノ島にある沖津宮の3宮から成ります。

沖ノ島は立ち入り禁止です

おそらく天皇家にとって都合の悪いものがザクザクあるのでは?(という説です)

皇族もここからは歩きます

神楽でも披露されると思われる広い板の間の拝殿

扁額には宗像宮と書かれています

本殿、拝殿ともに重要文化財に指定されていました

 

境内社の数が多いのはビックリです

ここにも境内社

境内社は本殿をぐるりと「コの字型」に囲んでいました

横に張り出した御神木の枝ぶりは支えが必要なくらい大きかったです

御神木は樹齢550年と言われる楢(なら)の木です

外から見た本殿

 

辺津宮からの脇道は高宮祭場に向かう参道となっていました。

高宮参道の先には「高宮祭場」、その先に「第二宮」「第三宮」があるとの事

扁額は緑色の文字、字体も「ヘタウマ」的な字だと思いませんか?

昭雲謹書とありましたので、昭雲という方が書かれたのだと思います。

少し違和感があります。

第二宮と第三宮は大島や沖ノ島に行けない方のための「遥拝所」的な存在だと思います

第二宮には大島の中津宮の御祭神「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」を祀っています。

第三宮には沖ノ島の沖津宮の御祭神「田心姫神(たごりひめのかみ)」を祀っています。

ただし、日本書紀の記載はこれとは違っている部分(田心姫神が中津宮など)もあり、今回は宗像大社に伝わる社伝を元にしています。

高宮祭場は辺津宮の御祭神である市杵島姫神が降臨したとされている場所です

神籬(ひもろぎ)とは神社以外の場所で神事を行う際に憑代(よりしろ、神が降りる場所)のことです。

磐境(いわさか)とは神事のために岩石で構築された祭場とされています。

ストーンサークルも磐境の一種だと考えられます。

高宮参道は木々に覆われて日陰になっています

それほど長い距離ではありません。

高宮祭場は近寄れない距離でした(スマホのズームでこれが限界)

古代の祭場の面影を残す貴重なものだそうです。

宗像三宮の位置関係の地図

沖ノ島は対馬と下関の中間点にあたる事がよく分かります。

下関は瀬戸内海から日本海(玄界灘)へ出る拠点です。

対馬からは朝鮮半島は直ぐの距離です。

日本(邪馬台国、阿波)と朝鮮貿易での重要な中継点が沖ノ島と大島、と言うことが出来ます。

この島で女神は何をしていたの?

間違いなく光通信です。(という説に僕は嵌っています)

三種の神器の1つでもある銅鏡、これは祭事的な使われ方ではなく、太陽の光を反射させて船や陸地の人々に信号を送る手段として使われていた、と考えられます。(あくまでも説ですが)

銅鏡の真ん中には紐を通せる穴開きの取手が付いています。

スマホのリング状ホルダーとは違って、さすがに指は通らないです。

穴に紐を通して手指で扱っていたのでは?(ネットから拝借)

カスタネットのような感じだと思います。

紐を指に引っ掛けて固定して使っていた?(ネットから拝借しました)

ここに指を通して鏡を固定して太陽光を反射させて合図を送っていたのです。

「朝鮮からの船が来たぞ」とか「正しい航路はこっちだよ」などの合図です。

光の反射の仕方でモールス信号のような決まり事もあったのかもしれません。

銅鏡は表面ばかりが注目されますが、裏面はピカピカです(ネットから拝借しました)

裏面は実用性そのものだと思いませんか?

これでお化粧していた、それは無いと思います。

その光通信の上手な使い手が宗像三女神です、という説です。

この光通信説を教わったのはYouTubeの「秘境やけん」というチャンネルの谷勤さんです。

https://www.youtube.com/watch?v=v1bJSNDc4e0&t=14s

「徳島神の絆会」というチャンネルでも発信しています。

 

宗像三女神は素戔嗚尊と天照大神の間で交わされた「うけい」で天照大神から生まれたとされる女神です。

「うけい」が交わされたのは当然、阿波国(徳島)です。

元は阿波国(徳島県)に居た3人の女神を朝鮮貿易の拠点の3ヶ所に移した、という考えです。

日本書紀では宗像三女神は大分の宇佐神宮(全国の八幡宮の総本山)に降臨してから現在の宗像の島々に遷座された、と書いてある部分もあります。

大島の中津宮の御祭神「湍津姫神(たぎつひめのかみ)」を祀っている第二宮

伊勢神宮が式年遷宮した際の別宮を持ってきて再建したものだそうです。

伊佐奈岐(いざなぎ)宮という別宮が第二宮の旧社殿です。

沖ノ島の沖津宮の御祭神「田心姫神(たごりひめのかみ)」を祀っている第三宮

昭和48年の第60回式年遷宮の際に移設して、平成29年の第62回式年遷宮の際の御用材(廃材?)修復したものだそうです。

伊佐奈弥(いざなみ)宮という別宮が第三宮の旧社殿です。

僕には第二宮も第三宮も全く同じ造りに見えます。

神明造という古来からの建築様式だそうです

 

伊勢神宮と宗像大社との関係性

しかし、伊勢神宮は明治になってから天皇家と関係性が深まった神社であることは、殆ど知られていません。

692年に持統天皇が参拝して以来1200年以上、どの天皇も参拝したことのない神社なのです。

お伊勢参り、などで江戸時代には庶民には馴染みのあった神社ですが、皇室は見向きもしなかったと考えています。

それが明治になってから急に「天照大神」を最も大切な皇祖神に仕立て上げた感があります。

森の中から環境音楽らしき音が聞こえてきました

高宮参道の周囲では芸術祭が催されていました。

音楽以外にもオブジェが置かれていたりしていました。

神聖な領域には似つかわしくないと感じましたが。

訪れた時期がちょうど芸術祭でした

「宗像みあれ芸術祭」です。

「みあれ」は漢字では「御生れ」と書くそうで、神様の新たな力がお生まれになるという意味だそうです。

宗像大社を後にしました

 

次に向かったのは港です。

神湊港です。

宗像大社の1つである中津宮がある大島へ渡るフェリーが出ています。

宗像大社の辺津宮から神湊港までは車で数分でした

神湊港の玄関先には銅鏡のモニュメントがありました

さすが、ですね。

神湊港から大島へフェリーです。

あと10分到着が早ければ、1本前のフェリーに乗れたのですが残念。

これで大島での滞在時間は25分と決定しました。

フェリーおおしまで25分の船旅です

揺れも殆どなく快適です。

あっという間に大島に到着です。

大島のマップ

レンタサイクルがぴったりの島でした。

標高224mの御嶽山が島の頂上です。

この山頂で宗像三女神が銅鏡で光通信をしていたのだと信じています。(あくまでも説ですが)

徒歩で40分、今回は諦めました。

とりあえず0.2kmの距離の宗像大社中津宮へ向かいました

大島にいる時間は正味20分、ダッシュしました。

中津宮の隣にある蛭子神社にも参拝

蛭子、正常でない状態で生まれた(奇形児?死産?)子供のことです。

ここが中津宮の入り口

奥は鬱蒼とした森です。

おそらく古墳だと思われます。

古色騒然とした鳥居

中津宮の由来

拝殿は神楽舞台を兼ねている?

本土の宗像大社辺津宮と造りがそっくりです。

扁額には「奉助天孫而 為天孫?祭」

調べてみます。

拝殿の左奥には和太鼓がありました

やはり神楽舞をするのだと思います。

清水が湧き出る井戸があります

足元暗いのですが、降りてみました。

これも古事記か日本書紀に出ていた井戸だと思います(記憶が違っていたらごめんなさい)

写真ではよく見えませんが奥からこんこんと水が湧き出していました

本殿は囲われていました

境内社もいくつかありました

こちらも立派な境内社でした

時間が全くないので訪れる事は出来ませんでした

沖津宮は女人禁制、男性でも特別な場合以外は立ち入り禁止の島です。

ここ大島の遥拝所から参拝出来ます。

神社の境内にあった日誌

日露戦争の日本海海戦のあった日の「沖津宮日誌」です。

明治38年5月27日の記録です

沖ノ島の沖合であった海戦だったのですね。

帰る頃には薄暗くなっていました

御神灯に火が灯って少し幻想的でした。

天の川があります

川の山側には織女神社があります。

独特な右上がりの鳥居でした

対になっているはずの牽牛神社は見当たりませんでした。

時間がなかったので、それ以上は検索しませんでした。

大島を後にして再びフェリーに乗りました

大島での滞在時間は25分でした。

レンタカーを返却したのは博多駅近くでした。

帰りのフライトまで時間があったので、博多駅構内で夕食です。

久しぶりの宝雲亭、中洲にある中華屋さんが駅ビルに支店を出していました。

まずはかき玉とビールで乾杯

元祖、一口餃子

締めはワンタン麺

元祖?鹿児島天文館の白くま

焼肉の後に食べると最高です。

買って帰りたかったけれども、冷凍なので諦めました。

福岡空港発のANA最終便は21時

日帰りでも目一杯楽しめました。

羽田空港まで約1時間半

爆睡します。

今回も充実した日帰りマイル旅でした。