吉野ヶ里遺跡に行ってきました(続きがあります) | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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先週は青森と秋田で縄文時代の遺跡を巡ってきました。

今週は九州で弥生時代の遺跡を探訪です。

目的地は佐賀の吉野ヶ里遺跡です。

もちろん今回もマイル旅です。

5時起きで羽田空港に向かいました。

7時発のANA福岡便

福岡で少し用事があったので佐賀空港ではなく福岡空港を利用しました。

福岡からはJR九州の九州新幹線で鳥栖駅に向かいました

 九州新幹線はロングノーズのカモノハシ型

九州新幹線に乗るのは2回目です。

鳥栖駅でレンタカーを借りて吉野ヶ里遺跡に向かいました。

JR鳥栖駅から30分かからない距離でした

平日とあって駐車場はガラガラ、見学者もまばらでした。

駐車場は有料、しかも現金のみの支払いで¥310と半端な金額でした。

係員との車内からの現金のやり取り、無駄だと思わないところが国営公園(半分は県立公園)でした。

先週行った青森の三内丸山遺跡とはホスピタリティが違っていました。

遺跡内の見取り図

それなりに広さがあります。

良い運動になりそうです。

入口で入場料を支払って、ネットで調べておいた無料のイヤホンガイドを申し込むと「もうそれは現在はやっていません」との返事。

でも吉野ヶ里遺跡のホームページにはしっかり出ていますよ。

結局、¥500のガイドペンを借りることになりました。

三内丸山遺跡のようなレギュラーなツアーガイドは開催されていませんでした。

ただし、月に2回だけツアーガイドが催されていました。

「月に2回だけ」、これで驚かない人はいないでしょう!

第1土曜日と第3日曜が開催日でした。

運営責任者の顔が見てみたいです。

縄文文化と弥生文化の違いを実感しました(笑)

実際に鳴らしてみました

金属的な甲高い音色でした。

何の目的で使用していたのかは明白ではありませんが、時報や祭祀で使われていたとされています。

初期の頃はこの写真のように「吊り下げて」使われていましたが、時代と共に徐々に巨大化して据え置きで使われるようになっています。

これも弥生時代の謎の1つです。

何故か遺跡の入り口にある鳥居

「鳥居」だから上に鳥が3羽飾られているの?

鳥居(トリイ)は当て字で、語源はヘブライ語と言われています。

ヘブライ語で「トリイ」とは門のことを指す言葉です。(あくまでも説です)

でも何故に鳥居を建てているの?

バリケード的な逆茂木(さかもぎ)

本当にこんな形だったの?とまたしても疑問を持ってしまいました。

逆茂木と推測される地面の穴

なんか乱雑すぎる印象です。

環濠です

環濠は敵の侵入を防ぐ目的の他に排水路や環濠集落の境界を示す目的もあったとされています。

弥生時代の土器の破片

修復作業をする場所もありました。

ここからが南内郭というエリアです

南内閣は柵で囲われていた、という想像図

再建された物見櫓

ビルの3階くらいの高さでした。

物見櫓は登ることも出来ました

かなり遠くまで見通せます。

柵と環濠で周囲は囲われています

これも本当ですか?

物見櫓もそれ相当の穴が開いていた、というだけなのでは?

大人(たいじん)の家

高床式ではなく、地面を掘り下げて作っています。

家の内部の想像図

大人と書いて「たいじん」と読むそうです

一般人ではなく身分の高い階級だそうです

大人の家と酷似している「王の家」

こんな感じで生活していたの?

色の付いた衣服は本当?染める技術があったの?

王を示すような特別が品々が発見されたのでしょうか?

どのような経緯で王になったのでしょうか?

武力?知力?家系?渡来人?天文学?

食事を作る場所です

こんなに立派だったのかしら

ここは煮炊きした跡が実際にあったのだと思われます

ここで作られた食事を家に運んだようです

おそらく家には煮炊きした跡がなかったのだと思います。

環濠の中に入れます

環濠はV字になっているために歩くのは困難な造りです

 

次のエリアは北内郭・北墳丘墓という場所です。

祭りや政治の中心だそうです

この時代の政治って何?

北内郭の入口

この門の上にも鳥が飾られています

辞めた方がいいと思いますが。

門の扉には閂(かんぬき)

これが残っていたのでしょうか?

これも大人の家に酷似しています

ここにも酒造りを思わせる跡があったのでしょうか?

説明文では女性が新米で酒を作っていたと限定していますが、そのような証拠があったのでしょうか?

印象操作をしているのでは?

このような施設に来ると疑心暗鬼になってしまう自分がいます。

これだけでムラの概要が分かるのが凄いですね

高床式の主祭殿

ここも内部に上がることが出来ました。

3階建でした。

大麻で気分が高揚して喋るのでしょうか?

このような説明文の文責は誰なの?

銅鏡や勾玉、剣(3種の神器)はこの遺跡から出土されたのですか?

「アイヌは北海道の原住民でした」的なバイアスを感じます。

主祭殿の高さを16.5mとしたのは科学的な根拠はあまり無いということです

次は主祭殿の近くにある小さめの建物です。

一部高床式の建物です

内部の造作も全くの想像だと思います

この時代、トイレはどのようにしていたのでしょうか?

身体を洗う、という習慣はあったのでしょうか?

居住空間ばかりで、トイレの説明はありません。

外に共同トイレ的なものがあったのでしょうか?

この建物の住人には卑弥呼的な人物を想像(捏造?)しているのですね

一人で住んでいたのでしょうか?

お付きの人はいなかったのでしょうか?

レイライン上に位置する東祭殿

これはレイラインという物証があるので説明にも説得力があります。

これも比較的小さい建物の東祭殿

「夏至の日の出」と「冬至の日の入り」を結んだ線上に位置するそうです。

ここでも「何度も立て替えられた跡」がある、と説明されていますが具体的な内容を知りたいです。

そこまでの説明やガイダンスはありませんでした。

 

この後はお墓です。

祖先を祀るのは人間の本能なのでしょうか

動物でも当てはまる行為はあるのでしょうか?

甕棺が埋葬されているエリアです

このような甕棺に埋葬されていたようです

甕棺は人間が入るのでかなりの大きさでした

現在の墓地と変わらない風景ですね

住居エリアから程近い場所にあります。

現在でも田舎に行くと住居の近くにお墓がありますよね。

沖縄では自宅のすぐ裏手にお墓があったりしますよね。

それと近い感覚だと思いました。

平均寿命も30歳代くらい、と思われます。

それほど、「死」や「祖先」は身近なものだったはずです。

歴代の王の墳墓と考えられる北墳丘墓

 

北墳丘墓の一部は屋内となっていて詳細に見学可能です。

約2100年前のものです

紀元前ですが、保存状態は良いようです。

甕棺の古さも測定されています

一番古い甕棺(1006号)を取り囲むように配置されているそうです。

実物の甕棺は屋内で見学出来ます

実物はかなり大きかったです。

甕棺の中から見つかった銅剣(レプリカ)

このような銅剣が出土したのは8つの甕棺からでした。

これも甕棺の中から見つかった管玉(くだたま)

全部で79個が出土したそうで鮮やかなコバルトブルーでした。

ガラス製だそです。

どのようにして使われていたのか興味津々です。

中空になっているので紐を通して使われていたのでは、と推測されています。

管玉が出土したのは銅剣が埋葬されていた8つの甕棺の中のたった1つでした

他の甕棺とは別格の位の高い人物の墳墓だったのでしょうか?

それとも卑弥呼的な人物だったのかもしれません。

中国や朝鮮の墳墓からも同様の管玉が出土していますが、1箇所あたり8個以下だそうです。

これほどの大量の管玉は珍しいそうです、

こちらは一般人?の墳墓群

 

甕棺は本体と蓋の2つで構成されていたようです

蓋をしてから繋ぎ目を粘土で塞いだようです。

王の下にも「一族」という組織があったのですね

一族の墳墓はこのような配列でした

数千年くらいでは人骨は残っているのですね

奄美諸島以南でしか採取できない貝の腕輪をしていた小児の人骨です。

位の高い人物の子供でしょうか?

頭蓋骨が無かった甕棺内の人骨

争い?生贄?事故?

石棺墓はより高位の人物のお墓なのでしょうか?

内面の朱色は当時は辰砂(硫化水銀HgS)から作られていました。

当時(弥生時代)に日本国内で辰砂が採掘されていた事が証明されているのは徳島県の若杉山遺跡とその加工場である加茂宮ノ前遺跡だけです。

おそらく徳島県との流通があったのだと思われます。(海外からの輸入ルートも否定できませんが)

ここの墳丘墓では1000基を超える甕棺が確認されています

吉野ヶ里遺跡全体では3000を超えるそうです。

道端にはまだ緑のカマキリ君がいました

自然豊かな場所ですね。

 

墳丘墓を後にして「倉と市」と呼ばれるエリアに向かいました。

機織り機の展示

これも出土したのでしょうか?

お蚕棚

これも証拠があるのでしょうか?

蚕や繭が出てきたのでしょうか?

この辺りの詳細は記述されていません。

音声ガイドでも詳細は語られていません。

養蚕の家、機織の家と名付けられています

市楼とは市を管理する建物だそう

市楼の建物

市が定期的に開催されて物々交換されていたのでしょうか?

物々交換とは分業体制で生産が行われていた証拠です。

稲籾が積まれていました(本物?)

ここにこそ警備員が必要だったと思います。

稲籾を保存していた倉庫

もちろん高床式ですね。

兵士の住居とされている建物

鹿児島県知覧の「三角兵舎」を思い出しました。

市の警備?

他のムラとの争いだけでなく、同じ環濠住宅の中でも争い事があったのでしょうか?

同じ部族?でも弱肉強食の世界だったのでしょうか?

腹部から鏃が10本も出てきた人骨

鎧や盾は無かったと推測されます。

骨で守られていない腹部が人間の弱点ですね。

一度刺さったら抜けにくい形状の鏃もあります

殺傷能力が高そうです。

銅鐸はこのような形で出土したそうです

島根県で出土した銅鐸と同じ鋳型と判明

弥生時代の広範な流通、人の交流が窺えます。

約2時間弱、吉野ヶ里遺跡を堪能してきました。

 

性懲りも無くこのような展示会が行われていました(あくまでも僕の説です)

町おこしですね。

ソフトクリームで一息つきました

炎天下と言っても良いくらい天候に恵まれました。

日焼けしてしまいました。

吉野ヶ里遺跡を後にして福岡に移動します。

次の目的地は「秋月」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこからか幻想的な音が流れてきました

境内では芸術展が開かれていたのですね

 

宗像大社を後にして向かったのは神湊港、フェリーに乗ります。

 

 

 

フェリー「おおしま」に乗りました

 

200mの距離にある宗像大社中津宮だけを参拝です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真では分かりにくいですが奥からこんこんと湧き出していました

 

時間的に無理でした、残念!

 

 

境内に掲げられていた日誌

拡大すると

沖ノ島の沖合が海戦場所だったのですね

神のご加護があったのでしょうか?

帰りは暗くなっていて御神灯が灯っていました

良い感じでした。

ここが天の川

川を挟んで彦星、織姫が対峙しているという構図です。

織女神社がありました

「右上がり」?の独特の鳥居ですね。

川の反対側を探したのですが牽牛神社は見当たりませんでした。

時間も無かったので無理には探しませんでしたが。

 

大島に別れを告げて帰路につきました

福岡駅でレンタカーを返却。

時間があったので駅ビルで夕食を食べました。

福岡で知らない人はいない?宝雲亭です。

まずは定番のかき玉でビール

元祖?一口餃子

締めは雲呑麺

 

ANAの東京行き最終便は21時発

日帰りでも目一杯佐賀、福岡を楽しめました。

約1時間半のフライトは爆睡します

明日から仕事頑張ります。