お台場の砲台跡を展望&探訪 | kyoritsu-utsunomiyaのブログ

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レインボーブリッジを歩いてお台場まで渡りました。

目的は日頃の運動不足、ではなく品川第6砲台跡と第3砲台跡の見学です。

幕末に建造された砲台跡です。

当時は砲台のことを「台場」と言っていました。

現在の港区台場という地名の元になった建造物です。

レインボーブリッジに登った事は以前に一度あったのですが、対岸まで歩いたのは人生初です。

片道20分くらいとの表示でした。

新橋駅からゆりかもめに乗車です

久しぶりのゆりかもめでした。

10時過ぎでしたが車内は結構混雑していました。

宇都宮市に出来る予定のLRTは繁盛するのか興味津々です。

ゆりかもめの芝浦ふ頭駅で下車

独身の頃に芝浦に2年間住んでいました。

その頃はゆりかもめはまだ出来ていなくて、最寄駅は徒歩13分のJR田町駅でした。(駅までのシャトルバスはありました)

芝浦ふ頭駅からレインボーブリッジに向かい「1A」出口へ

途中に案内板もあり迷うことはありません

遊歩道を下から見上げるとこんな感じ

レインボーブリッジの芝浦側橋脚からエレベーターで7階まで昇ります。

サウスルートを歩きます

レインボーブリッジの遊歩道は南側(東京湾の外海側)と北側(東京湾の内側)の2ルートがあります。

品川第6砲台跡はサウスルートから出ないと見えませんので、もちろんサウスルートを選択。

エレベーターを降りるとこのような景色です

地上高46mです。

芝浦側を振り返った景色です

いかにもレインボーブリッジ、というアングルですね。

遊歩道は車道のすぐ脇です

結構な交通量なので排ガス目的でのマスクはマストです。

夏場でなくて良かった、という印象です。

自転車でも通れますが、乗車は出来ません。

自転車を引きながら歩くのは可です。

サウスルートから品川方面の景色

埠頭にはコンテナが沢山、日本は輸出立国だと再確認出来ます。

東京湾の概形

かなりの範囲が埋め立てられてレインボーブリッジの距離も比較的僅かなものだと分かります。

江戸、東京の歴史は埋立の歴史でもあります。

東京湾の歴史は1457年に遡るとは驚きでした

太田道灌が江戸城を築城したのが始まりでした。

1457年は応仁の乱(1467年)よりも前ですので、戦国時代の前という事です。

レインボーブリッジの下を通過したのは「おがさわら丸」

竹芝桟橋から出航して小笠原諸島に向かうフェリーです。

調べたら父島までは約24時間、おおよそ1000kmの行程です。

いつかは行ってみたい「東洋のガラパゴス」です。

段々と今日の1番の目的、品川第6砲台跡が見えてきました。

お目当ての品川第6砲台跡です

サウスルートをゆっくり歩いて15分くらいで到着しました。

現在は上陸禁止、レインボーブリッジの遊歩道から展望するか、観光船で近くから見るか、の2通りです。

知らない方には小さい人工島にしか見えないかも知れません。

船着場の跡です

江戸時代は第6砲台まで船で行き来していたのです。

桟橋だったのでしょうかが、朽ち果てています。

建造後、170年以上も経っているので当然と言えば当然ですが。

まるで城郭のような造りの石垣です

戦国時代から続く築城技術は幕末でも保存されていた証左です。

現在でも造る技術は継承されているのでしょうか?

品川第6砲台跡を展望するため(であろう?)のデッキが遊歩道には設置されていました

写真がきれいに撮れるように手すりの上にはネットはありません。

東京都は親切ですね。

第6砲台跡は人工島とはいえ、上陸が禁止されているのでジャングルのように樹木で覆われていて中は窺い知ることは出来ません。

ドローンでも飛ばせばわかるのでしょうが。

第6砲台跡を背にして遊歩道を進みました。

サウスルートの遊歩道から見える品川第3砲台跡

今度は品川第3砲台跡が見えてきました。

これから行く目的地です。

第6砲台跡よりは一回り大きい印象です。

品川第3砲台跡にも朽ちた船着場が見えました

おそらくこの場所には歩いては行けなさそうなので、遊歩道から写真を撮りました。

サウスルートを降りた場所の風景

この辺りのレインボーブリッジはそれほど高さはありません。

左上の島が第6砲台跡、その右下の四角く陸続きになっているのが第3砲台跡

当時は全て人工島に作った砲台でしたが、第3砲台跡だけは現在は埋め立てて陸続きになっているので徒歩で行けます。

第3砲台跡も含めて一帯は「台場公園」となっています

お弁当を広げているカップルもいたりして、憩いの場になっていました。

平日とあって僕のように砲台跡目当ての人はまばらでした。

幕末にこの砲台を実際に設計、建造した幕臣が江川英龍です。

これから先しばらくは台場を造った江川英龍とその周辺の人物の話になります。

江川英龍(えがわ ひでたつ)、江川太郎左衛門英龍とも呼ばれています

静岡の伊豆韮山の代官でした。

いわゆる徳川幕府の幕臣です。

あの二宮尊徳を招聘して農地改革を行い、領民には商品作物の栽培を奨励したり、飢饉の際には積極的に施しを領民に与えたそうです。

種痘の技術が伝わるといち早く伊豆韮山の領民に接種を施し、領民かたとても慕われていた代官だったようです。

時代劇に出てくる悪代官とは真逆の人物だったようです。

江川英龍は渡辺崋山や高野長英の影響を大きく受け、その後長崎に留学して高島秋帆に砲術を学んでします。

徳川幕府は文政8年(1825年)に「異国船打払令」を制定して外国船に対応していましたが、早くから蘭学に接していた江川英龍は天保7年(1836年)には幕府に海防の意見書を出しています。

渡辺崋山(わたなべ かざん)

三河田原藩で家老を勤める傍ら、画家としても有名な人物です。

渡辺崋山自身は蘭学者ではないのですが、尚歯会を通して蘭学者とは深い交流があったようです。

尚歯会とは当時の江戸の蘭学者や儒学者、幕臣官僚などの知識人の集まりでした。

ここで江川英龍や高野長英と知り合って、特に江川英龍には海防の重要性を認識させたようです(諸説あり)

しかし、渡辺崋山自身も幕臣であったために、本心である開国論を公にする事は出来なかったようです。

後述する蛮社の獄(天保10年、1839年)で捜索を受けた自宅から幕府の対外政策を批判する書(慎機論)が見つかり、田原藩に戻って謹慎生活を送っていました。

謹慎中に反渡辺崋山派の陰謀によって自害に追い込まれています。

高野長英(たかの ちょうえい)

僕の故郷、岩手県水沢出身の幕末の蘭学者・医師です。

郷土の誇りです。

水沢(現在は奥州市)の僕の実家から歩いて数分のところに「高野長英記念館」があります。

江戸時代からの代々医家の家系で僕が高校生の頃までは近所に高野医院がありました。(今もあるのかな?)

蘭学者で開国論者でもあった高野長英にも江川英龍は影響を受けていたと思われます。

しかし、渡辺崋山や高野長英との決定的な意見の違いは「開国論者ではなくあくまでも鎖国下での海防論者」だったという事です。

国を想う気持ちは一緒でも手段が違っていた、という事ですね。

事実、天保10年(1839年)の「蛮社の獄」(元々儒学者家系だった目付役の鳥居耀蔵が開国的な蘭学者を取り締まった事件)では渡辺崋山は謹慎となり、高野長英は捕らえられていますが江川英龍はお咎め無しでした。(江川英龍と鳥居耀蔵は昔からの友人だったので罪を免れた、老中の水野忠邦に江川英龍は評価されていたのでお咎め無しだった、など諸説あります))

小伝馬町牢屋敷に捕らえられた高野長英は牢屋敷の火災に乗じて脱獄します。

指名手配の中を全国を放浪(浦和→江戸→愛媛宇和島→麻布→水沢→麻布→青山)しますが、最後は青山に隠れているところを密告されて捕縛され護送中に亡くなっています。

著書に戊戌夢物語(開国論者として幕府を批判したもの)やわすれがたみ(小伝馬牢の獄中記)があります。

高島秋帆(たかしま しゅうはん)

江戸末期の砲術家で「高島式砲術」を開発した幕臣でした。

元々は長崎の町年寄りを勤めていた家系でした。

生まれが長崎だったために出島のオランダ人との交流があり、西洋式砲術と和式砲術の違いに愕然として、西洋式砲術を学び大砲を自作しています。

渡辺崋山の勧めで江川英龍は長崎に出向き高島秋帆に弟子入りして、高島式砲術を学んでいます。

ここで習得した知識で江川英龍は品川台場を設計、建造したのです。

その後、江川英龍は江戸に戻って砲術指南の「江川塾」を開いています。

幕府の命令で天保12年(1841年)に江戸で高島秋帆と弟子らが砲術の実演を行なっています。

その場所が現在の板橋区高島平です。

地名の由来にもなっているのが高島秋帆でした。

この江川塾の門下生には佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨など幕末、明治初期に活躍した偉人が多くいます。

砲台建築に尽力した江川英龍の出身地の静岡県韮山町が台場公園に記念植樹しています

記念植樹は台場建造から150年経った2004年の事です。

伊豆韮山には台場に設営した砲台の原料となる鋼鉄を造るための「韮山反射炉」が造られ、しっかりと現存しています。

このようなストーリーは静岡県韮山町の子供達に語り継がれていると良いですね。

修学旅行などで来る機会があれば尚更良いと思います。

郷土出身者の功績を語り継いだり学ぶのはとても良い風習だと思います。

江戸時代に描かれた品川砲台の見取り図

江戸湾は現在ほどには埋め立てられていなかったのが明白です。

絵図にある通り11ヶ所計画されましたが実際には5ヶ所のみの建造で終わりました。

嘉永7年(1854年)に日米和親条約が結ばれたのを契機に砲台は不要になったのです。

5ヶ所建造されたうちの2ヶ所(第3、第6)だけが現存しています。

残りの3ヶ所は多大な労力をかけて取り壊されたそうです。

東京湾内だけでなく三浦半島から房総半島にまで防衛拠点としての台場(砲台)設置されたようです

嘉永7年(1854年)の地図ですので明治維新の14年前になります。

これもペリー来航の功績です。

1回目のペリー来航によって、国防意識が高まって数年の間に多くの大原(砲台)が建造されたのです。

品川第3砲台跡地の中央部はすり鉢状に窪んでいます

 

 

 

所々にこのような塹壕?が設営されていました

敵艦からの砲弾除けの場所でしょうか?

何の跡かわかりませんでした

これも何かの跡ではあると思いますが分かりません

現状は2台設置されています

当時も2台だけだったのでしょうか?

砲台跡です(実はレプリカだそう)

砲身は固定式なので、敵艦を狙うタイミングは1回だけ?

当然、東京湾の外側に向かって設置されています。

フジテレビを吹っ飛ばせ!

砲台跡にあるQRコードを読み込むとバーチャル大砲が現れて上記のような画像を作成することが出来ます。

遊び心、あります。

品川第3砲台跡は陸続きなので石垣に触れる事も出来ます

整然と積み上げられています。

この台場は僅かな期間で作り上げられています。

国防の危機感がそうさせたのだと思います。

石垣の上部は「跳ね返し」構造になっていて敵の上陸を防ぐ工夫が施されています

本当に戦闘になることを考えられて作ったのですね。

もちろん台場は海に面していますので、水鳥がいました

品川第3砲台跡を堪能して再びレインボーブリッジ遊歩道で芝浦に戻ります。

復路はノースルートを通りました

ノースルートは東京湾の内側に面している遊歩道です。

奥にはスカイツリーが見えました

東京タワーが見えます

エレベーターで地上まで降りて、出発点の芝浦ふ頭駅に向かいましたが、途中で少し寄り道です。

昔住んでいたマンションに立ち寄ってみました。

僕が以前(約30年前!)に住んでいたマンションはまだ健在でした

20階建てだったと思います。

当時は高層マンションでしたが、現在の40階以上が当たり前のタワマンとは規模が比較にならないほど小さいです。

XJAPANのY氏や松井直◯さん、グラドルの加藤れい◯さんなども住んでいた当時はバブリーな賃貸マンションでした。

地下駐車場にはY氏のロールスが置かれていたのを記憶しています

芝浦ふ頭駅から新橋に戻り、買い物を済ませて帰宅です。

結構な距離を歩いた事になります

でもあまり運動にはなっていないと思います。

やはり筋肉負荷が重要です。

江戸時代と比べても現在の日本の防衛力はどうなのでしょうか?