日本当局と米軍の あまりに歪な関係 

 

日本人が「知ってはいけない」、日本とアメリカの「本当の関係」

…日本の戦後史最大の「謎と闇」

           2024.04.13    (矢部 宏治) | 現代ビジネス

 

日米両国の「本当の関係」とは?

 安保関連法を強引に可決させた安倍首相は、おそらく 日本が集団的自衛権を行使できるように

なれば、アメリカと「 どんな攻撃に対しても、たがいに血を流して守りあう 」対等な関係になれる

という幻想を抱いているのでしょう。

   しかし、それは 誤解なのです。

アジアの国との二国間条約である日米安保条約が、集団的自衛権にもとづく対等な相互防衛条約

となることは、今後も 絶対にありえないのです。

   事実、指揮権密約をみてもわかるとおり、現在の日米の軍事的な関係では、日本側が軍事力を

増強したり、憲法解釈を変えて 海外へ派兵できるようになればなるほど、米軍司令官のもとで

従属的に使われてしまうことは確実です。

 

  つまり 集団的自衛権というのは、現在の日米安保条約とは 基本的に関係のない概念なのです。

ところが、それにもかかわらず、なぜか アメリカの軍部からの強い働きかけによって、2015年9月、

その行使のための国内法が強行採決されてしまいました。

   それでは この日米両国の「本当の関係」とは、いったい何なのでしょう。このあまりに 不平等な

関係が、どういう国際法のロジックによって 正当化されているのでしょう。

 

  その疑問を晴らすために、先ほど見た1950年10月の旧安保条約・米軍原案から、さらにもうひとつ

前の段階の「条文」に さかのぼって調べてみることにしました。

すると驚いたことに、そこで すべての謎が解けてしまうことになったのです。

 

「日本全土を米軍の潜在的基地にする」

    下が 米軍原案の4ヵ月前(1950年6月)に書かれた、その問題の「条文」です。

まず読んでみてください。

    ○ 日本全土が、米軍の防衛作戦のための潜在的基地とみなされなければならない。
    ○ 米軍司令官は、日本全土で 軍の配備を行うための無制限の自由をもつ。
    ○ 日本人の国民感情に悪影響を与えないよう、米軍の配備における重大な変更は、

      米軍司令官と日本の首相との協議なしには行わないという条項を設ける。しかし、戦争の危険

      がある場合はその例外とする。

 

「 なんだ これは。さっきの米軍原案と、ほとんど一緒じゃないか 」

と思われたかもしれません。

   そのとおりです。

しかし この「条文」の重要性は、その内容ではないのです。

問題は これを書いた人物が、そのわずか 4年前に憲法9条をつくり、その後も、

「 日本の本土には 絶対、米軍基地は置かない 」

と言い続けていた マッカーサーだったということです。

                                               ダグラス・マッカーサー - Wikipedia

   そのマッカーサーが、なんと、

  「 日本全土を 米軍の潜在的基地にする 」

というような、おかしくなってしまったかのような「条文」を、突如として書いていた。

しかも 彼が この「条文」を書いたのは、1950年6月23日。 朝鮮戦争が起こる わずか2日前だった

というのです。

  この あまりに不可解な「6・23メモ」と呼ばれる報告書の背景を調べることで、結果として

日本の「 戦後史の謎 」における最後のピースが見つかり、私が 2010年以降 続けてきた「大きな謎

を解く旅」も、ようやく終わりを告げることになったのです。

「6・23メモ」第2項参照:https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1227  )。

 

マッカーサーの迷い

 どんな国にも、その国の未来を決めた重大な瞬間というものがあります。

「 戦後日本 」の場合、それは間違いなく、朝鮮戦争が起こった 1950年6月だったといえるでしょう。

開戦日(6月25日)を挟んだ ほんの数日のあいだに、日本のあるべき未来の姿は、大きく転換する

ことになったのです。

 

   ここで 当時の状況を 少しだけ振り返っておきましょう。

第二次大戦での敗戦から、日本の占領は すでに五年近く続いており、占領軍を指揮するマッカーサー

とアメリカ国務省は、できるだけ早く 占領を終わらせたいと考えていました。そのまま ズルズル占領

を続けてしまうと、アメリカ自身が定めた「領土不拡大」の原則に違反していると批判されるおそれ

があったからです。

   一方、アメリカの軍部は、日本の占領終結には 絶対反対の立場をとっていました。

というのも、その前年の1949年10月に誕生した共産主義の中国(中華人民共和国)が、この年の

2月に 同じ共産主義国であるソ連と手を結び、日本と そこに駐留するアメリカを仮想敵国と位置づけた

軍事同盟(「中ソ友好同盟相互援助条約」)を成立させていたからです。

 

   憲法9条で 日本に戦力放棄をさせていたマッカーサーも、さすがに以前のように、

 

「 沖縄に強力な空軍をおいておけば、アジア沿岸の敵軍は 確実に破壊できる 」
「 だから 日本の本土に軍事力は必要ない 」〔=憲法9条2項は間違っていない〕

 

などと言える状況ではなくなっていました。そして「 平和条約を結んだあとも、米軍は 日本への駐留

を続ける 」という軍部の提案にも理解を示し始めていたのですが、その大きな方針転換を どのような

ロジックで行えばいいか、考えあぐねていたのです。

 

朝鮮戦争を逆手にとったダレス

   そんな状況のなかで、突如、朝鮮戦争が起こってしまった。

ふつうに考えたら、日本を独立させることなど、もう絶対に不可能なわけです。そんなことを軍部が

許すはずがありません。

ところが そのとき、持ち前の豪腕で事態を急転させたのが、日米安保体制の産みの親となるジョン

・フォスター・ダレスでした。

わずか 2ヵ月前に国務省の顧問に就任したばかりで、朝鮮戦争の開戦時に ちょうど日本を訪問中

だったダレスは、この朝鮮戦争を逆手にとって 軍部に 日本の独立を認めさせるという荒業を、

みごとに成功させるのです。

   そのとき 軍部の説得のための有力な材料として使われたのが、先ほど紹介したマッカーサーの

「6・23メモ」でした。

 

   「 中国とソ連が加担した この大戦争に勝利するには、隣国である日本の戦争協力が どうしても

   必要です。日本の独立に賛成してもらえれば、必ず そのひきかえとして、日本に全面的な戦争協力

   を約束させます。このメモを見てください。以前は 日本の独立後の米軍駐留に反対されていた

   マッカーサー元帥も、現在は 日本全土を基地として使い続けるという構想を持っておられます 」

 

というのが、ダレスのロジックだったのです。

  このダレスの粘り強い説得工作が成功した結果、軍部も ようやく納得し、朝鮮戦争の開戦から

2ヵ月半後の1950年9月8日には、

    ○ アメリカは 日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利を獲得する。
    ○ 軍事上の問題については 平和条約から切り離した別の二ヵ国協定〔のちの旧安保条約〕を

    つくり、その原案は 国務省と国防省が共同で作成する〔つまり、軍部が中心となって作成する〕。

 

といった基本方針を条件に、対日平和条約の交渉の開始が、トルーマン大統領によって承認される

ことになったのです。

 

「6・23メモ」の謎

   突如 起こった朝鮮戦争という大きなマイナスを、逆に 暗礁にのりあげていた 対日平和条約を

動かすためのプラスの力として利用する ── 。人間としての好き嫌いは別にして、ダレスというのは

本当に仕事のできるスゴ腕の男だった と思います。

  しかし、そこには どう考えても腑に落ちない点があるのです。というのは マッカーサーもダレスも

朝鮮半島で 戦争が起こるとは、6月25日の当日まで まったく考えていませんでした。ダレスなどは

開戦の一週間前に 韓国にわたり、38度線も視察したあと、日本に戻った 6月21日に、

   「 現在、朝鮮半島には、差しせまった危険はありません 」

と報告していたくらいだったのです。

 

   そうした状況のなかで、どうして マッカーサーが 開戦わずか2日前の 6月23日に、その後、

軍部への説得材料になるような、「 日本全土を 米軍の潜在的基地にする 」という、従来の方針を

180度転換した報告書(メモ)を書くことができたのでしょうか。

そのタイミングと内容が、あまりにも不自然なのです。

 

   そう疑問に思って もう一度、ネット上で アメリカ国務省が公開している「6・23メモ」の原文を

みてみると、そこには 脚注として 次のように書かれていました。

 「 このメモは、本資料集に収録されていない 6月29日のアリソン氏〔当時、国務省の北東アジア局長

  で、ダレスの東京訪問の同行者〕のメモに、4番目の添付資料としてファイルされていたものです 」

 

   つまり、この資料集(『アメリカ外交文書(FRUS)』)を編纂しているアメリカ国務省歴史課の

スタッフは、

 「 このメモが その日付どおり 6月23日に書かれたものだと証言しているのは、ダレス氏とその部下

  のアリソン氏だけです 」

という事実を わざわざ教えてくれているのです。

 

    ですから、この問題について 歴史的に確定した事実をまとめると 次の4点になります。

(1) このマッカーサーのメモが 6月23日に書かれたと証言しているのは、ダレスとその部下の

    アリソンだけである。

(2)マッカーサーは この「6・23メモ」に書かれた内容について、前日の6月22日だけでなく、

    実は 朝鮮戦争の起きた翌日の26日にも ダレスと会談をしていた(後出のダレスの「6・30メモ」

    についての「解説」(→244ページ)と、リチャード・B・フィン著『マッカーサーと吉田茂』

    同文書院インターナショナル参照)。

(3) 「6・23メモ」の内容は 「日本全土を潜在的米軍基地にする」など、それまでのマッカーサー

    の方針を 極端なかたちで 180度転換するものだった。

(4)ダレスは 6月25日の朝鮮戦争の開戦後、軍部を説得する有力な材料として この「6・23メモ」

    を使い続けた。

 

   これらの事実を総合すると、常識的に考えて この「6・23メモ」が、朝鮮戦争の開戦前の会談

(23日)ではなく、開戦後の会談(26日)をもとに、マッカーサーとダレスの共同作業によって

作られたものであることは確実です。

   つまり、ダレスが 朝鮮戦争の勃発を受けて、新たな「対日方針」を急遽作成した。けれども

プライドの高いマッカーサーの体面を保つために、メモの日付をごまかして、その180度の大方針転換

が、すでに 朝鮮戦争の開戦前に行われていたことにしてやった ということです。

 

   ここで どうして私が、これほどひとつの報告書の日付にこだわったかというと、この「6・23メモ」

という報告書が、文字どおり日本の命運を決した もうひとつの非常に重要な報告書と、セットで

書かれたものであることがわかっているからです。

   その報告書の名を「6・30メモ」といいます。こちらは マッカーサーではなく ダレス自身の名で、

彼が日本訪問から帰国したあと、「6・23メモ」の内容について解説したものです。そして そこには

日本の「戦後史の謎」を解くための、最後のカギが隠されていたのです。

 

解説 「6・30メモ」

   ダレスは この報告書(1950年6月30日にアチソン国務長官など8人へ送付)のなかで、6月下旬に

行われたマッカーサーとの2度の会談〔6月22日と26日〕を振り返るかたちで、次のように述べて

います。(以下、概要)

 

〈6月22日の朝、私はマッカーサー元帥と会談し、次のことを述べた。

日本と平和条約を結んだあと、米軍が どのようにして 日本に駐留を続けるかという問題については、

それが 単にアメリカの利害にもとづくものではなく、「国際社会全体の平和と安全」という枠組み

のなかで行われることが望ましい。だから 米軍基地の提供も、国連憲章43条のなかの「 軍事上の

便益の提供 」というコンセプトにもとづいて行われた方がいい。そういって、私は 次のメモを

マッカーサー元帥に渡した。

   「 本来の国際法の流れでは、

   1.日本が 平和条約を結ぶ。
   2.日本が 国連に参加する。
   3.そしてそのとき 国連が完全に機能していれば、国連憲章43条がさだめるとおり、日本は

    国連安保理と「特別協定」を結んで、軍事上の「便益」を安保理に提供することが可能になります。
   4.ところが 現在、43条でさだめられた「特別協定」は実現しておりません。その場合、わが国を

    ふくむ安保理常任理事国・五ヵ国には、国連憲章106条によって、「 特別協定が効力を生じる

   〔=国連軍ができる〕までのあいだ 」に限り、「 国際平和と安全のために必要な行動 」を

   「 国連に代わってとる 」ことが認められております。

 

  そこで 提案なのですが、日本は 自国の国連加盟が実現し、加えて 国連憲章43条の効力が発生する

〔=国連軍ができる〕までのあいだ、ポツダム宣言署名国〔=連合国〕を代表するアメリカとの

あいだに、「特別協定」に相当する協定〔=旧安保条約〕を結び、アメリカに軍事基地を提供する。

国連軍構想が 実際に動きだせば、それらの基地は 国連軍の基地となる。

   そういう考え方で いかがでしょうか 」

 

   マッカーサー元帥は そのときと次の会談〔6月26日〕のとき、その考えに全面的に賛同され、

「 これなら日本人も受け入れやすいだろう 」と述べられた 〉
(原文:https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1229

 

「大きな謎を解く旅」の終わり

   このダレスの「6・30メモ」を「発見」したことで、私の7年間におよぶ「大きな謎を解く旅」も、

ようやく終わりを告げることになりました。

米軍が 自分で条文を書いた「旧安保条約・米軍原案」(1950年10月27日案)の さらに奥に、ダレス

が全体のコンセプトを示した「6・30メモ」(同年6月30日案)があったということです。

それをチャートにすると、次のとおりです。

  (1) 朝鮮戦争の開戦直後に、ダレスが軍部を説得するためにつくった「6・30メモ」
      (1950年6月30日)
      ⇩
  (2)朝鮮戦争のさなかに、軍部自身がつくった「旧安保条約・米軍原案」
     (1950年10月27日)
      ⇩
  (3) 戦後、日米間で結ばれたオモテ側の条約や協定 + 密約
     (1951年~現在)

 

これで終わりです。

 

  「 突然の朝鮮戦争によって生まれた「 占領下での米軍への戦争協力体制 」が、ダレスの法的

トリックによって、その後、60年以上も固定し続けてしまった 」

ということです。

   だから現在、私たちが生きているのは、実は「戦後レジーム」ではなく「朝鮮戦争レジーム」

なのです。朝鮮戦争は いまも平和条約が結ばれておらず、正式に終わったわけではない(休戦中)

ので、当時の法的な関係は 現在も すべてそのまま続いているからです。

   そして 最後に、もっとも重要なことは、これから 私たちがその「朝鮮戦争レジーム」を支える

法的構造に、はっきり「NO」と言わない限り、ダレスの「6・30メモ」や「旧安保条約・米軍原案」

に書かれていた その内容が、今後も 少しずつ国内法として整備され、ついには完成されてしまう

ということです。

   日本の戦後史に、これ以上の謎も闇も、もうありません。