日米指揮権密約

 

日本が直面している世界で唯一の「ヤバすぎる現実」

…「日本とアメリカ軍」の関係、じつは「あまりにいびつ」だった

                    2024.04.11          (矢部 宏治) | 週刊現代 |

 

  日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、

 社会全体の構造を歪めている。
  そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、

 じつは 米軍と日本のエリート官僚とのあいだで 直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を

   起源としている。
   『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」

  を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。

       *本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から

   抜粋・再編集したものです。

 

すべては朝鮮戦争から始まった

 その詳しい経緯は、結局『 密約の歴史 』ではなく、『 日本はなぜ、「戦争ができる国」になった

のか』というタイトルで本に書きましたので、興味のある方は、ぜひ読んでいただければと思います。

 この章では、そのなかで どうしても みなさんにお伝えしなければならない重大な事実をふたつに

絞って、お話ししたいと思います。

 

   まず ひとつめ。 それは これまでずっと『知ってはいけない』で取り上げてきた、日本の軍事面

における 極端な対米従属構造。また、世界で おそらく ほかに韓国しか例のない、あまりに巨大で

異常な駐留米軍のもつ法的特権。

  ずっと「 なぜ日本だけ、こんなにひどい状況なんだ 」と思い続けてきた その原因が、指揮権密約

の歴史をたどることで、はっきりわかったということです。  

   一言でいうと、その原因は すべて朝鮮戦争にあったということです。  朝鮮戦争というのは、

日本でもアメリカでも「忘れられた戦争」といわれており、私自身、余り具体的な印象がありません。

しかし、じつは それは、戦後世界の行方を決めた大戦争で、とくに「戦後日本」にとっては、まさに

決定的といえるほど重要な意味を持つ戦争だったのです (朝鮮戦争は 現在も休戦中で、法的には

まだ戦争は終わっていません)。 

 振り返ってみれば、日本の独立を ちょうど真ん中にはさんだ 前後3年(1950~53年)のあいだ、

アメリカは すぐとなりの朝鮮半島で激戦を繰り広げていたわけですから、それが安保条約や行政協定

の内容に影響を与えていないはずがありません。

   けれども 私も なぜか、安保条約や行政協定の条文を読むときに、これまで 朝鮮戦争のことを

関連づけて読んだことはありませんでした。  

しかし、もちろん当然のことながら、朝鮮戦争の戦況は、ひとつひとつの条文にも非常にダイレクト

な影響を与えていたのです。

 

危機に陥った米軍

 1950年6月25日に始まったこの戦争で、日本から出撃していった米軍(朝鮮国連軍)は 当初、

徹底的に負けるわけです。それは マッカーサーの判断ミスで、北朝鮮が 南に攻めてくることなど

絶対にないと考えていたため、敵を迎え撃つ準備が まったくできていなかったからでした。  

   そのため 米軍は 開戦から わずか1ヵ月余りで、朝鮮半島南端の釜山周辺の一角まで追いつめられて

しまう。あやうく 対馬海峡にたたき落とされそうな状況にまで陥ってしまったのです。  

しかし、それでも 米軍は負けなかった。それは 対馬海峡の対岸にある日本から、どんどん武器や弾薬

や兵士たちが送りこまれていたからで、「 兵站が続けば 戦争は負けない 」という軍事上のセオリー

の、まるで教科書のような戦況だったわけです。

  そして 有名なマッカーサーの仁川上陸作戦 (9月15日)もあって、一度、中国国境近くまで

押し返したものの、中国軍が参戦したことで また38度線あたりまで後退させられる。 米軍にとって

それは、「 歴史上もっとも困難をきわめた戦争のひとつ 」だったのです。

 

さまざまな戦争支援

 そうした状況のなか、連合国軍という名のアメリカ陸軍に占領されていた日本は、さまざまな

かたちで この戦争への協力を求められることになりました。敗戦時に ポツダム宣言を受け入れていた

日本は、連合国軍最高司令官であるマッカーサーに対して、その要求を拒否する法的権利を持って

いなかったからです。 

 そのため、朝鮮半島への上陸作戦で機雷を除去するための掃海艇の派遣や、米軍基地に配備する

ための警察予備隊 (7万5000人)の創設、さらには 米兵や軍事物資の輸送、武器や車両の調達や補修

など、まさに 国をあげての戦争支援を行ったのです。

  おかげで「朝鮮特需」といわれる 巨額の経済的利益がもたらされ、まだ復興の途上にあった

日本経済を大きく潤すことになりました。

  そして、朝鮮戦争の開戦から 7ヵ月後 (1951年1月)に始まった、日本の独立に向けての日米交渉

のなかで、日本は 当時、朝鮮戦争に関して行っていた、そうした さまざまな米軍への軍事支援を、

「独立後も変わらず継続します」という条約を結ばされてしまうことになったのです。  

それが 1951年9月8日、平和条約や旧安保条約と同時に交わされた「吉田・アチソン交換公文

という名の条約です。

 

   でも おそらく読者のみなさんは、どなたも そのことをご存じないでしょう。もちろん当時の

国民も、その取り決めが持つ本当の意味について、だれひとりわかっていませんでした。

 

解説 吉田・アチソン交換公文

 この きわめて重大な取り決めは、サンフランシスコ平和条約 や 旧安保条約と同じ1951年9月8日

に、アメリカのサンフランシスコ市で結ばれました。

「交換公文」とは、政府の責任者間で 書簡を往復させたという形をとった広義の条約のひとつです。

  旧安保条約と同じく「吉田・アチソン交換公文」もまた、事前には 日本国民に いっさいその内容

が知らされない「事実上の密約」として結ばれたものでした (アチソンとは 平和条約にも旧安保条約

にもサインした、当時のアメリカの国務長官の名前です)。  

 

  というのも、日本の占領を終えるにあたって、米軍の駐留継続 (旧安保条約)や、米軍への軍事支援

の継続 (吉田・アチソン交換公文)を交換条件とすることは、ポツダム宣言にも 国連憲章にも違反する

行為だったからです。

  そのため 平和条約によって独立を回復した日本が、あくまで 自由な意志に従って それらの取り決め

を結ぶというフィクションが、アメリカ側の交渉責任者であるダレスによって作られていたのです。  ですから、サンフランシスコの豪華なオペラハウスで 平和条約が結ばれた9月8日午前の時点では、

まだ それらの文書は存在しないことになっていました。ところが 実際には、もちろん 条文は

用意されていて、その日の午後5時から サンフランシスコ郊外の米軍基地内で、吉田首相ひとりの

署名によって この2つの取り決めが結ばれたわけです。 

 

 そもそも 当初の日米交渉の段階で、アメリカ側から提案された「吉田・アチソン交換公文」の

原文は、次のようなものでした。 

 「〔平和条約と旧安保条約が発効したときに〕もしも まだ 国連が朝鮮で軍事行動を続けていた場合

は、日本は、国連が 朝鮮の国連軍を以前と同じ方法で、日本を通じて支援することを認める 」

(1951年2月9日)  詳しくは『日本はなぜ「戦争ができる国」になったのか』を読んでいただきたい

のですが、ここで 最も重要なポイントは、右の傍点部分にある「朝鮮の国連軍」も、それを日本を

通じて支援する「国連」も、その実態は 米軍そのものだということです。 

 つまりは 朝鮮戦争の開始以来、占領軍からの指示によって行っていた米軍への兵站活動(後方支援)

を、独立後も 変わらず続けるというのが、この「吉田・アチソン交換公文」の持つ本当の意味だった

のです。

 

  その後の日米交渉のなかで、この取り決めは さらに改悪され、「朝鮮」という地域的な限定も、

「国連」という国際法上の限定も、ほとんどなくなってしまいました。  

   その結果、現在に至るまで 日本は、米軍への戦争協力を 条約で義務づけられた世界で唯一の国

となっているのです。  

   さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、

コウモリや遺跡よりも 日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。