2024年2月 ブラジルセミナーにて
私はこの世に武人として生きてきたが、それゆえにこそ、孔子の教えを大事にしたいと思った。
子曰く「勇にして礼なき者を悪(にく)む」
子曰く「剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂なり」
子曰く「勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱なり」
武道修行者や軍人は、生命(いのち)がけの闘争に生きる。このとき必要なものは勇気であり、剛力である。しかしながら、武人はその武勇を頼るゆえに、粗暴としてこの世に受けいれられないことがある。
礼や学は、だれにも必要なことである。しかし、武道修行者には、これがとくに必要である。
空手を一、二ヵ月も練習すると、蹴りや突きもいくらか早く正確になり、街を歩いていて、つい空手の技をやってみたくなるものである。街を歩いている人は隙だらけである。道場では上手な人には手も足も出ないが、なにも知らない人には、通用しそうだ。そう思うと、空手の技を誇示し、人を驚かせたくなる。大学の空手部らしいのが、電車のなかでたむろして、拳のタコを人に見せびらかしたりする。
こういう連中に限って、そう強くはない。ほんとうに強い武道家は、一般の人々に、それを誇示したりする必要を感じないものだ。また、それをもって人を威嚇することを恥ずかしく思うものだ。
武道家の粗暴な振舞いは、本人が考えている以上に他人に圧迫感を与え、憎しみの感情を誘発する。もともと、人に憎まれるために、武の道を進む者はいないはずである。
私は自分がそういう弊におちいらぬよう、座右の銘第十一ヵ条の第一に「武の道は礼によってはじまり礼によっておわる。よって常に礼を正しくせよ」とした。
世に立つ武道でなくして、なんの面目があろうか。
私は道場でも、礼節を親孝行とを毎日のように、道場生に説く。
強くなることも大切だが、強くなることによって、この世に礼を貫くことが、より大切である。