(一社)極真会館 田畑 道場 KYOKUSHIN KARATE UNION TABATA DOJO

(一社)極真会館 田畑 道場 KYOKUSHIN KARATE UNION TABATA DOJO

1979年4月に18歳で極真会館創始者の大山倍逹総裁の内弟子に入寮し、以来40年間、カラテ一筋で歩むことができました。
カラテ修業40年を節目として、大山総裁に教えて頂いたこと、習ったこと、学んだことを皆様にお伝えしたいと思います。

2024年2月 ブラジルセミナーにて

 

 空手は確かに強い。この五体がすべて武器と変じ、いままで可能と思われなかった奇襲戦的な力を発現させる武術である。だからこそ、私もほかの闘技者をことごとく倒し、牛の角を折ることができたのだ。しかし、強さだけが、空手のすべてではない。

 空手の技としての強さは、無限に奥行きの深い雄大なものの、わずか一部にすぎない。空手の強烈な威力は、その奥底に無限の力をもつ氷山の一角であり、私が真に知ってもらいたいのは、底にかくれた無限大のひろがりなのである。

 私がアメリカや海外に、空手を普及して歩いていると、

「禅とはなにか」ということをよく聞かれる。

「禅とは空手である。空手こそ禅である」

 私はこう答える。すると彼らは聞き返す。

「禅は難しくて、とうてい理解できない。東洋人以外にはついてゆけない世界だ」

 私は即座に相手の考えを打ち消す。

「禅はそのように至難なものではない。考え方によっては、万人に行うことのできるやさしい道なのだ。あなたでも、私でも、いますぐここで行えることが禅なのだ」

「いますぐここで? どうすればいいのか」

「立って誠心誠意をこめ、精神を統一し、空手の技を行ってみなさい。自分もなく、相手もなく、敵も味方もない、勝敗もないという境地まで、精神の統一がもしできたら、あなたはりっぱに禅を修めし得たのです。

 さらに私はつづける。

「ものを食べるときでも、相手と話をするときでも、あるいは筆をとるときでも、ハンマーを握って仕事するときでも、相手と話をするときでも、あるいは筆をとるときでも、ハンマーを握って仕事するときでも、心を澄まし、精神を統一しきって、そのものになりきってごらんなさい。そこにこそ、禅が生きてくるのです。」

 これが禅の心であり、また空手の精神でもあるのだ。