では、今日から論述講座を始めます。

題して「ステップ式論述講座」です。

少しずつステップ・アップしましょう。


予備校女講師の日本史デイリー講座-松平定信

(寛政の改革を行った松平定信)


まず、「論述が怖い」と不安を持っている方へ。


100字、150字、200字という字数だから怖くなるのではないでしょうか?


まず、第一歩は、

字数に関わらず、その課題に関する、


いちば~ん、短い論述を書くことから始めましょう。


そして、それをベースにして、ふくらますのです。


百歩の道も一歩からです。


では、さっそく課題です。文化史からの出題にします。


(2004年度慶應義塾大学商学部)

「寛政異学の禁」の内容40字以内で説明しなさい。


まずは、「異学」の内容が何か?

きちんとわかっているかどうかが加点ポイントになります。。


それでは、簡単にまとめてみましょう。


「〔  1  〕学以外の〔 2 〕を禁じた。」


〔 1 〕・〔 2 〕の内容を入れてみましょう。



〔1〕 は朱子(学)ですね。



次に〔2〕。意外にここを誤解している人がいます。



〔2〕は、儒学です。


異学」は、「朱子学以外の儒学」であって、


蘭学国学といった儒学以外の学問は指していません


次に、もう一度設問をみてください。

字数はこれから増やすので考えないとして、


根本的な問題です。


設問の内容に対して、

「朱子学以外の儒学を禁じた。」という答えでいいでしょうか?


それでは、次回、「根本的な問題」について説明します。


それまで、考えておいてくださいね。


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みなさん、センターはいかがでした?

私の予備校のM田校では、20日に壮行会を行いました。


せっかくだから、私も参加させていただきました。


参加した生徒は意外に少なくて、ちょっと寂しかったのですが、


彼ら、そしてみなさんにお伝えしたいメッセージは、


勝とう」と思わないで、「やろう!」と思って欲しいということです。


「勝とう」と「やろう」の違い…どこでしょうか?


高い階段を昇るときの心境にたとえれば、

「勝とう」という姿勢は、階段の最上段をみて昇ろうとすることです。

この階段の最上段が、それこそ金毘羅(こんぴら)さんのように、見えなかったら…


センターでへこたれるなど、心が弱っているときは、昇る気力さえ湧かないと思います。

また、仮に最上段が見える場合でも、足下をみないで昇ることになります。


それではいけないのです。


昇る階段の一段一段をふみしめて昇って欲しいと思うのです。

「勝とう」という姿勢は、階段を昇りきろうとして焦る気持ちです。

それに対して「やろう」は階段を一段ずつ昇ろうとする気持ちです。


入試の直前まで学び続ける姿勢としてはどっちが正しいと思いますか?


それでは、何から一段ずつ踏み込みましょうか?


やはり、入試の場合は、苦手な分野の克服だと思います。


私がみる限り、すべての生徒さんが苦手にするのは、

古代・中世の文化史の論述ではないかと思います。


明日から、文化史の論述を中心に論述講座を始めますね。


論述を書く初歩から、一段ずつ、段階をつけてやってみましょう!



最後に、壮行会のあとで、おそらく最後だろう生徒達との交流ができたのが嬉しかったです。


わざわざうちの予備校のT川校から質問にきてくれた生徒や、いつも元気な二人組みの生徒達。


二人組は「何か書(+描)いてください」というので、

一人には武田信玄を、もう一人には上杉謙信を描いてあげました。


もっと、巧く描いてあげたかったと思います。


でも、絵の力も、うまく描こうと思うだけでは巧くなりません。

「今日は信玄の肖像画を、明日はあの特徴的な兜を、明日は鎧の描写…」と段階的にスケッチを重ねて、

やっと自分の絵で描けるようになるんですよね。


では、また。

よろしくお願いします。

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09年度日本史Bセンター本試験解説


第6問


問1 Xが正しく。Yが誤り。

 Y ロシア革命に対する軍事干渉とはシベリア出兵。


  誤っているのは、「米価が下落」の部分でした~(^^;)。


  「腹が減っては戦はできない」は古今東西共通の真理で、シベリア出兵を見越した

 米の買い占めが起こり、米価は上昇したのです。

 それが、米騒動の原因の一つとなりました。ついでいえば、米騒動の中心はの「農民」ではなく、

「都市民」ですね。ここも違います。


 問2 Ⅲ-Ⅰ-Ⅱの順。

  ⅠとⅢはどちらも1920年代ですが、内閣が違いますね。

  こういうとき、内閣の順番をおぼえていると、結構いいですよ。


  Ⅰは田中義一内閣。1928年。

  Ⅱは浜口雄幸内閣。1930年。

  Ⅲはワシントン海軍軍縮条約。1922年(ワシントン会議は1921~22年)。


問3 Xが正しく、Yが誤り。

 X 普通選挙法が成立したのは1925年だから、「前後の両年」とは1924年と1926年です。

  それさえわかかれば、あとは表を比べるだけですよね。

 Y まず、知識として必要なのは世界恐慌が始まったのは1929年という知識。

  昭和恐慌1930年をおぼえていてもできますね。


   あとは、規模の大小を表から読み取る問題。


  見るポイントは、「1件当たりの参加小作人数B/A」です。

 世界恐慌前の1928年は「40.3人」もいたのに、1930年以降は減っていますね。

 小規模化してますね。(*^_^*)


 ですから、Yの大規模化する傾向」が、りなんです。


問4 ③が正しい。

 ① 満鉄は、ソ連に撤収されましたが、正式な閉鎖は、一応1945年9月です。

 ② 山東出兵田中義一内閣です。田中内閣は立憲政友会が与党なので、

  幣原喜重郎は入閣していません。


  この時代(憲政の常道時代)は、

  立憲政友会と、憲政会(のち立憲民政党)二大政党の時代です。


  幣原喜重郎が外務大臣をつとめたのは、憲政会(立憲民政党)の方です。


 ④ 大東亜会議は1943年、東条英機内閣です。

  この内閣の外務大臣はころころかわってます。

  開戦当時は東郷茂徳でしたが、大東亜会議のときは重光葵です。


問5 順はⅢ-Ⅱ-Ⅰです。

 Ⅰ 日中戦争勃発後の南京大虐殺ですから1937年。

 Ⅱ 満州事変勃発後の、リットン調査団の派遣は1932年。

 Ⅲ 張作霖爆殺事件ですから1928年。


問6 ④が誤り。

 ④ 「修身」は、日本歴史や地理とともに廃止されました。


問7 Xが誤り。Yが正しい。

 X 配給制度は戦後も続いてました

  私の戦後史の授業で横浜校をとった人は直前に、

  配給だけで生きようとして、餓死しちゃった方のお話を聞いてますよね。


問8 ③が正しい。

 条約はサンフランシスコ平和条約です。何年かは問題文中に書いてありますよ。

 ① 小笠原諸島の返還は1968年。

 ② 警察予備隊はすでに1950年に創設されています。

 ④ 中華民国中華人民共和国は、会議に招聘(しょうへい)自体されていませんし

  インドビルマは会議参加を拒否しました。

  また、会議に参加しながら調印しなかった国は、ソ連以外にチェコポーランドがあります。


では、これで終わりです。よろしく、 

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