『流行通信』②/東京発の先鋭的なファッション誌 から続く

 

私は1983年の1月に

『流行通信』に入社しました。

 

大学教授になりたいという

夢を絶たれた上に、

じつは入社試験の結果が補欠で

自宅待機すること8か月。

家族からはまだかまだかとせっつかれ、

もうこれはダメなのか、と諦めたころに、

やっとお声が掛かりました…。

 

もともと読み物ページ担当

希望だったところが、

フタを開けてみればファッション担当。

でも、もう贅沢言えるような

状況ではありません。

 

編集部は表参道駅B2出口を出てすぐの、

酒屋さんのビルの3階にありました。

 

さほど広くないスペースに

『流行通信』編集部と

インタビュー専門誌

『STUDIO VOICE』の編集部、

営業部や販売部のデスクが

ぎゅうぎゅうに置かれた、

お世辞にもキレイとは言えない場所。

 

入社したその朝から、

電話の取り次ぎだけは

テキパキとできました。

自宅待機期の8ヶ月のあいだに、

設計事務所でアルバイトをしていたので、

電話は取り慣れていたからです。

 

ものごと、かえって良かった、

ということはあるものですよね。

 

電話は『流通』の編集部だけではなく、

会社中の全員にかかってきました。

 

そんな中で、

まいにち何度も取っていたのが、

『STUDIO VOICE』の編集長あてに

かかってくる

 

「ハヤシです」という、

ちょっとほわっとした声の女の人と、

 

「イノセです」という、低めで

ダンディな感じの声の男の人からの電話。

 

ハヤシさんは、

「ルンルンを買っておうちにかえろう」を

出版したばかりの林真理子さん。

 

イノセさんは、

「日本凡人伝」を連載中の猪瀬直樹氏。

このときは猪瀬さんがのちのち都知事に

なられるとは夢にも思いませんでしたが。

 

いまでも、おふた方をテレビや雑誌などで

お見かけすると、

 

「ハヤシです」(ほわっ)

 

「イノセです」(低めダンディ)

 

という電話のお声を、

なつかしく思い出します。

 

写真は、まだ入社したての頃。

新しくできた友人と、

青山骨董通りの

「アンバーハウスギャラリー」で。

 

向かって右側が23歳の私です。

 

このブティック兼ギャラリーは

ショップの一角が

カフェ・バーになっていました。

スタバもまだなかったころの、

ザ・80年代的な風景です。

 

『流行通信』④/『流通』の“おしん”と呼ばれて に続く