カントリーは田舎か故郷か。 | 境界線型録

境界線型録

I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.

 

 昨夜の丼問題から記すと、結論は、カツ丼である。なぜかといえば、そこに冷凍一口カツ六つがあったから。いや、そこ、では正確ではないか。冷凍庫に、である。私はそういうものを絶対に買わないが、昨暮れ妻がサボるために購入して隠してあった。その日食べたら不味かったので放置されたが、数日後、私がカツ丼に改造すると意外に食えた。で、味を占めたことを思い出したので、今日もやったのであった。冷凍の不味いカツも、カツ丼化すれば食える、という日本独特のかえし的タレ文化の魔術と言って良いだろうか。

 それはさておき、もちろん今夜の主題は初稽古。ほぼ指導だったけど、愉しかった。前半は他支部から参戦されたご婦人と同い年の先輩と、一カ条固着の解説実演販売遊び。初めはご婦人が力みすぎなので、基本動作の話をしていたら、先輩他もどれどれと寄り来たり、さまざまな状況における一カ条固着の存在を暴き、誰もが忘却の彼方に流浪していた真の技が思いがけず自分の中に存在していたという事実を目前にあからさまに晒す衝撃的な一大お稽古スペクタクルがついに、われらが稽古場に繰り広げられたのであった。やッ、テレビのヘンなドラマのタイトルみたいになってしまったか。
 詰まるところ、養神館でいわれる「正面打ち一カ条抑え(一)」の秘密に迫れば、七割方の型
意味が繙けるのではないか、というような解説をしたのだった。
 合気道の型などご存じない方も多いと思うので、新年初稽古記念サービスとしてYouTubeを貼ろう。久しぶりに温かい汗を流し機嫌が良いから、今夜はかなり長くなりそうだし。

 

 

 これは安藤師範という人がどこかでご指導なさったらしい絵である。たったこれだけの型だけど、この中に無限大といえるほどの可能性が内包されているといって良いだろうか。が、この動画でのやり方は師範も気安くやられているのか、ウケはほとんど崩れていない。一カ条に制したという状態でも、ウケは逃げられるし反撃もできる状態といって良い。これでは、技としては駄目だろう。シテがウケの腕を腰高まで斬り下ろしたとき、ウケの左手は上げられない状態になっているのが正解で、そうでない限り、逃げも反撃もできる。それをできなくさせなければ、正面打ち一カ条抑え(一)という型を稽古する意義は半減以下になるだろう。
 なので、本日は、その辺をしつこく解説し技術指導的なこともした。ご婦人も先輩もマジッすかっと驚いたようだけど、当然、安藤師範クラスならご存じに決まっていて、そこまで解説すると大変だから手抜きしたのだろうと思われる。が、私は愉しいので、諄くやった。
 そのような、斬り下ろされたときウケが手を上げることができなくなり、前方回転で脱することも、足を蹴りだして反撃することもしにくくなる状況は、ひとえに肘固着によって相手の肩を制圧することと、相手の体重バランスをシテが操舵可能な状況になっている故に発現する。それ以外では発現し得ない。
 一カ条というのは相手の腕を捉え、肘関節を前腕が内旋し得る限界点でロック(固着)させ、それを利用して相手の上腕を操作し、脇を空けさせたような状態を指す。打つとか突くとか掴むとかどんな攻撃の場合でも同じである。
 この際、もっとも重要なのが、肘固着だけれど、ほとんどの場合骨格に着目していないため、橈骨と橈骨で戦うような状態になる。前腕には橈骨と尺骨という骨があり、ロックするのは尺骨だけ。理由は簡単で、尺骨は肘関節に食いこんでいて可動域が小さいが、橈骨は肘関節から自由なので可動域が広いということにある。つまり、相手と接触した時点で尺骨を制することが、一カ条を成功へ導く最重要の点といえる。が、人間の体は己の意志のままに動くものではなく、どうしても屈筋群で自由に動かせる橈骨を使ってしまいがちで、なかなか肘固着に持ちこめない。
 みたいな解説をし、尺骨側の感覚を研ぎ澄ますために、型稽古は力まず筋肉を緩めできる限り骨格を意識してゆっくり、姿勢を崩さないように丁寧に、型の理合いを考えつつ正確にやるべきだぴょーん、というような話をしたのだった。

 

 臂力というのも、合気上げというのも、結局はここに帰結せざるを得ない。
 厳しい見方をすれば、そこが日本武術の限界といえなくもない。槍や刀という剣術を長らく用いてきたから、体術については後進国だったのだろうと思う。柔術や相撲でも打突や蹴りはほとんど使わず、もっぱら相手の体バランスを奪って投げ倒すような技が多い。柔術の場合は基本的に関節技とセットだったはずだけど、今の柔道ではそういう感じが見えにくい。強いのだろうとは思うけど、技という伝統文化は継承されたのだろうか、と疑問を感じざるを得ない。
 私的に拘泥しているのはあくまでも、古流柔術の流れの中に芽生えたらしい「合気」なる不可思議な技の具現なので、一カ条固着みたいなことに執着する。これは技が進んでくるとメチャクチャ面白く、シテがなにもしなくてもウケが勝手に技に填まりこむようになる。となると、ウケとしては、「あれッ?なんでおれって固まっちゃってるの?」的な状況が現出しだし、シテもウケも笑いが止まらないというたいへん平和な戦いが具現されたりするのである。
 これほど愉快で平和な武術が、日本の他に存在しているだろうか。

 

 

 今週はカントリー特集にしたので慌ててもう一発貼ったが、たまにYouTubeのネットラジオでカントリーを聴くと、おお、これぞアメリカの演歌・艶歌だなぁと感動する。曲想は全く違って感じるけど、理念は全く同じだろう。表現とコンセプトの違いかな。日本では演歌・艶歌などというが、あちらではカントリー=田舎となる。これも面白いことだけど、故郷となると、アメリカではホームという表現になり、やや趣が異なる。日本的には「田舎」といえば、洗練されていない土臭い生活風土を続けているところ的な感じで、「故郷」という言葉でも似たような使い方をする。けれど、アメリカではやや異なるようで、カントリーは大自然豊かな土地のような雰囲気になり、ホームは生まれ故郷的であり都会でも田舎でも己の生に纏わり懐かしまれるところが故郷ということだろう。これは結構、アメリカの方がナイーブにも感じられる。私もそんな感じがある。
 私は宮城県生まれの田舎者だけど、当時の本籍はさらに田舎っぽい岩手県胆沢郡だった。が、結婚した頃、戸籍謄本など取りに行くのが面倒だから東京都世田谷区に変えた。世田谷区も成城なので、娘たちは会社ではセレブのお嬢さんと勘違いされるらしい。この百姓の子だというのに。もっとも、娘たちにとっての「故郷」は世田谷であり、宮城でも岩手でもない。紛れもなく世田谷区成城なので、しかたない。が、娘たちにとっても「田舎」となると、宮城県の栗原や気仙沼が想起される。
 いや、また横道に行きすぎたか。
 思うのは、型や技というものにとっても、田舎と故郷というような相違があり、田舎と故郷を捉え違えてしまうと、トンチンカンな古流を継承してしまうのかもなぁと思ったりしたことである。合気道は戦後生まれの現代武道だけど、その発祥は古流武術にあるのは間違いないから、その田舎とはなにか、故郷とはなにか、なんてことも考えたら面白いかもなぁ、と。
 誤謬の中で型を身に浸みつけてしまうと、田舎に遊ぶだけという気もする。できることならば、源流である故郷を訪ね、その正統の息吹をこの体に流しこみたい。
 とはいえ、私のやっていることが正統とはいえず、それは、もはや、誰にもわからないのではないか、と思う。
 

 今日、たまたま、かつて私が属していた居合いの道場も隣の剣道場で初稽古をしていた。なぜか、そこの代表さんがわれわれの稽古場をちらっと覗いたので、ご挨拶した。
 「○○さん、お久しぶりです」と声をかけ。
 「やあ、梅さん。お元気でやってますか」
 「はい、おかげさまで。○○さんも体調良さそうで、安心しました」
 「いやいや、そうでもないんですけどね。どうですか、覗いていきませんか」
 むむ、と食指を動かされかけたが踏み止まった。
 「いえ、まだ稽古中だし、刀も持ってきてませんから」
 「ああ、それは残念ですね。また、どうぞ、覗いてください」
 以前お目にかかったときは、たまに刀を振らせてくださいなというと、「一回五百円ですよ」とか答えたので、もうやらないと決心したが、まったく異なる対応なので面食らった。
 これは、田舎反応か、故郷反応か?と悩みつつ、サボった流れで喫煙所へ行き一服したのだった。
 

 もう長いけど、稽古が心地良かったからもうちょっとしつこくやろう。
 日本人にとって、というかわれわれ世代くらいまでかもしれないが、故郷というと、例のウサギ美味しいという歌が想起されたりする。あれは田舎の情景だけれど、ただの田舎ではなくて故郷なのは、「ウサギ美味しい、蚊の山。子豚釣りし、鹿の河馬」という歌詞でわかる。あ、誤字だらけかッ!
 「かの」ということは、かつて知るというような意味だから、己の脳裏にしっかり写しこまれていた光景の山であり川である。ということは、ただの自然豊かな田舎のそれではなく、自分に縁ある故郷だということになる。日本語表現の繊細がこんな歌詞にも発見できてとっても愉しい。
 武術としての「技」となるといささか勝手が違い、それは私の中には存在しない記憶であり、昔々の縁もゆかりもないどなたかが開発し、それを弟子のどなたかが継承し(たか判らないが)、したということで伝承してきたことになる。それが正調なのかどうか、誰も判らなくなって当然だろう。
 が、判らないからそれで良いじゃんとはいかず、できる限りオリジンに近づきたいのが人の常。合気の場合、私は武田惣角さんこそオリジンだと思っているから、その人がやった技に迫りたい。ただ、古武術なら何でも良いわけではなく、私的に魅了されたのは武田惣角さんの合気であり、惣角さんこそが目指したい、出会いたい、行き着きたい私の「故郷」である。その他の古武術は懐かしみ良いなぁと眺めて愉しむ「田舎」ではあっても、私が探したい「故郷」ではない。
 田舎は好きだし、故郷に帰りたい、といつも思っているが、それは環境とか表層のスタイルではなく、根本的な技であり、生き方の基本概念だったりするんだなぁ、とか稽古しつつ思うのだった。