ぎっくり稽古。 | 境界線型録

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I Have A Pen. A Pen, A Pen Pen Pen.


 まだぎっくりしているが、稽古。
 行くだけは行って監視だけして、じっとしていようと思っていたが、見ているとムズムズして、つい手がでてしまった。

 しかし、今回のぎっくり事件は、私的には実に意義あるぎっくりとなった。
 第一に、立っている分には、ほとんど痛くないということ。
 第二に、歩いてもほとんど痛くならないこと。
 痛みの強さは4・5年前になった時と変わらないと思うが、痛みの発生頻度がまったく違う。3年前くらいに激変した体重感覚の恩恵といって良いだろう。これが、ずっと目指していた楽体の成果なので、とても喜ばしい。
 自重をまっすぐ重力に任せて落下させていれば、体は屈曲しにくい。単純には言えないが、少なくとも骨格を意識してそのように立っているなら、屈曲しにくい。
 体が屈曲しなければ、体重は偏らない。体重が偏らなければ、それを支えるために余分な筋力が働く必要はない。よって、筋肉は労働から解放され、楽を享受できる。
 それが、楽体の理屈だが、これは自分の体でかなり明快に確認できたと言って良い。重ささえまっすぐ落下させておければ、運転もなんら問題ない。乗り降りの時はちょっと痛むが、一瞬のことだ。
 今日運転して気がついたが、ソファなどに比べて、車のシートはほんとうに良くできている感じがした。かなり人間工学的に進化しているのかもしれない。ぎっくり状態だと、家の中では木のスツールがもっとも楽だが、車のシートの安定度には感心した。エルゴノミックスデザインとしては、家屋内インテリアの数倍先を行っているかもしれない。

 と機嫌が良くなってしまったので、つい、稽古に参戦してしまったわけだ。
 浮かし稽古なら、重心さえ定まっていれば、痛まないかもしれない。という想像が起こり、確かめたくなってしまった。
 呼吸法をやっている若者たちにこそこそと近寄り、どれどれ、私にもやらせてご覧とやさしく言い寄る。あどけない若者は、艶やかな肌を露わにした手を私の腕に差し伸べた。お、ちょっと桃色系になってしまった。
 さあ、押さえ込んでねと片手を掴ませると、あ~ん、と若者は腰を浮かせる。いけない、どうも嬉しくて素浪人調に戻ってしまう。

 片手掴みの呼吸法(合気上げ)擬きだが、楽々浮く。これは正座でやったが、かかってくる相手の重さは、私の体を通って、まっすぐ床に落ちていた。腰はまったく痛まない。上体が重力に対して、まっすぐ屹立できていると言うことだろう。もっともこれは視覚的なものではなく、内部的な状態。感覚のないものが外から見てもわからない。
 自分自身で重さの感覚、いわゆる体重心というのは確認しているけれど、これでだいぶはっきりしたと感じる。明らかに私はまっすぐ立てている。なぜならば、ぎっくり腰が痛まないから。

 まったく怪我の功名のような確信だが、私的には大事件なのだ。体が満足な状態では、こういう確信はそうそう得られるものではない。
 身体感覚を実感したいなら、ぎっくり腰で稽古をしよう。
 これぞ、へそ曲がり和術の合い言葉に相応しい。

 しかし、そういう時、おいそれとやってはまずいか。重さ感覚にかなり自信がない人は、やってはいけない。間違いなく、飛び上がるほどの痛みに襲われるから。
 和術にはなんら階梯も段位もないが、本日、自身を宗家と認めることにした。ぎっくり状態で浮きを作る人は見聞したことがないので、オンリーワンだから。楽流和術の和術宗家になったので、知っている人はあまりバカにしないで尊敬するように。もっとも和術ってなんなのかはっきりしないし、稽古体系も基礎的なメソッドもないが、そういう細かいことを気にしていては浮きは作れない。すべては身体内の感覚。静かな感覚が、自ずから技を恵む。
 今日は、偶然だけれど、近年にあって最高の収穫を実感できた気がする。

 稽古場近くの桜並木も、紅潮して祝福してくれていた、ことにした。

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