『水戸黄門』第4部の時代設定などについて追加する。
第4部では水戸光圀、うっかり八兵衛、絵師・石塚清雅と名乗っていた山田左膳(演:中丸忠雄)がまず、芭蕉庵ヘ向かう。
助三郎と格之進に言うと漫遊反対派の中山備前にもれるということで、光圀は助三郎と格之進に内緒で旅に出た。
絵師・石塚清雅こと山田左膳は光圀と会ったとき、高田藩から来た身分を隠し、江戸に住んで絵師をしていると言っていた。この絵師は完全に東京風(江戸山の手風)のことばを使っていたが、光圀はこの男に越後の訛りがあると指摘。絵師は越後で修業をしていたと説明。
大野敏明氏が『歴史ドラマの大ウソ』で「『水戸黄門』で日本中の人が東京風のことばを使っているのはおかしい」と言っていたが、このドラマでは登場人物が江戸風の台詞を言っても訛りがある設定。
元禄時代の越後訛りは、すでに常人にはわからないレベルなのだろうか。新潟県の人が茨城で完全に東京風のことばを使って東京都民を名乗っても、「新潟訛りがある」と見抜かれるようなものだ。
こうなると光圀は関東の人が江戸風のことばを話しているのを聴いても微妙な訛りを聴きとれたようだ。弥七のことばは完全な江戸方言だが、光圀には微妙に伊賀の訛りが聴こえるのだろう。
『水戸黄門』の光圀は金田一春彦氏に匹敵する日本一の方言学者だ。『大日本史』編纂でなく日本語の方言会話の本や方言辞典でも編纂したほうがいいのではないか。
光圀は八兵衛に「いつも越後のちりめん問屋を名乗っているので、本物の越後のちりめん問屋を観たい」と言って、絵師と3人で水戸を出る。
当然、水戸では光圀の失踪が問題になる。
中山備前が助三郎(独身)と格之進(妻子持ち)を派遣。両名が江戸で弥七の経営するそば屋に来たが光圀はいない。そのときに飛脚が来て、格之進の妻・美雪からのてがみなどを弥七の店に届けた。
携帯電話か宅配便なみの正確さである。
光圀は千住(足立区か)に着き、ここで「どうじゃな、八兵衛。2年ばかり見ぬ間に江戸も一段とにぎやかになったのう」と言った。
光圀にとって江戸は2年ぶりらしい。水戸藩主時代は多くの場合、江戸にいたはずだから(下注釋)、1690年(元禄3年)の隠居までは江戸にいたはずで、すると時代設定は1692年か。
しかし光圀が高田藩に着いた時点で1681年の越後事件から14年(つまり1695年)というナレーションだったので、光圀が江戸から高田に行くまで3年も経過したか?
これほど水戸や江戸を留守にしていては、もはや失踪であろう(下注釋)。
もっとも越後騒動は1679年から1681年まで続いた事件らしい。すると14年後に相当するのは1693年から1695年までである。1679年から14年後は1693年だが、1679年を1年目とすれば14年目は1692年。
光圀ら3人は芭蕉庵に到着。光圀によると延宝9年(1681年)に芭蕉が芭蕉の木を植えたらしい。
光圀は芭蕉庵で格之進、助三郎と出会うが寸前で絵師がメンバーから抜け、光圀たちがそこで多数の刺客の襲われ、火を放たれる。弥七が救いだしたが、捕り方が現れ、刺客たちは逃げて捕り方が光圀たちを賊と勘違いし格闘に。そこに絵師が現れる。
捕り方を取り締まる上司らしき陣笠の人物が現れ、水戸光圀と気付いて捕り方は平伏。
助三郎と格之進は絵師を怪しいと思って、高田藩で絵師が正体を明かすまでの間、疑い続けていたが当然だろう。
結局、絵師の命を狙う一派が光圀の命も狙ったのであるが、このように助三郎たちは絵師がその黒幕と疑うだろうし、事件が起きても地元の捕り方は光圀たちを犯人を思う可能性がある。何より光圀の忍び旅は光圀の命を狙う側には格好の機会。
要するにこの光圀や絵師がやっている忍び旅は危険であり、こんな手法は少しも有効ではないということだ。中山備前など長老が反対するのも当然である。
この絵師は本当は高田藩の関係者で、光圀に助けを求めたのだが、高田藩についたとき、絵師の仲間の女が光圀に話しかけ、また人里離れた山小屋に案内。光圀は上機嫌だったが、例によって格之進と助三郎はその女を怪しんで、「なぜ、我々をこんなところに連れてきたのか」という趣旨の質問をしていた。
そのあと、絵師と高田藩関係者が現れ、光圀に平伏、事情を説明した。こういう方法はまことによくない。
ドラマの光圀が人の性格で、物好きだったからいいものの、そうでなければ光圀が断るか、途中で絵師を怪しんで水戸に戻ってしまう可能性もあった。
要するに日本各地の問題を、このように一人の長老に任せる『水戸黄門』的なシステム自体が間違っているのである。
2010年秋の内閣改造で総務大臣になった片山善博氏は、2007年の『中央公論』4月号で『水戸黄門』的な「つまみ食い的な問題解決方法」を批判していたが、地方の問題は地元で長い年月をかけて解決すべきである。
東京で夕方の『水戸黄門』の再放送が第4部になった。
助三郎(演:里見浩太朗)が『おくのほそ道』の本を光圀(演:東野英治郎)に見せようとすると光圀ももう1冊持っていた。
第4部で光圀は第15話で青森に行き、第16話で松前、蝦夷を訪れたらしい。
石塚清雅という絵師が登場するが芭蕉は出てこないようだ。
芭蕉が『おくのほそ道(奥の細道)』の旅をしたのは1689年(元禄2年)で、光圀が隠居する前年。
一方、本が出たのは1702年(元禄15年)で、光圀没後である。
ドラマでは光圀が刊行前の本を入手していたことになる。
また、第29部では光圀(演:石坂浩二)が甲府に行く途中、勝沼で芭蕉と会い、第40部では江戸から光圀が旅だった所で芭蕉と曽良が同じ方向へ向かって旅している。
出雲崎で「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」と詠んだのは1689年7月だったようだが、『水戸黄門』第40部では光圀が隠居の時代(1690年以降)になっている。
第4部では、弥七とお新はそば屋を営んで、すでに夫婦である。場所は江戸であろう。
第3部でお新の父親が没したとき、1690年(元禄3年)であった。第4部はそのあとか。
渥美格之進には妻・深雪(演:岩井友見)と息子・格之助(演:長良俊一)がいる。
助三郎はまだ独身で、長老から見合いを勧められていた。見合いの相手を山本陽子が演じた。
光圀一行が旅先でいきなり刺客数名に襲われて、「次回へ続く」となった。
やはり町人に化けた忍び旅は危険だ。
助三郎は第10部で志乃と結婚し、第41部で美加と結婚したらしい。
TBS番組表(www.tbs.co.jp/tv)では9月9日の再放送で新克利が出たのでこれが第4話。
第5話「黒いひげの黄門さま」ではでは場所が長岡で、東野英治郎の2役で光右衛門が登場するはず。
第16話「北海の反乱(前編)」と第17話「〃(後編)」は蝦夷が舞台。再放送されるかどうか。
TBSの『水戸黄門』HP(www.tbs.co.jp/mito/)を参考にした。
↓
第4部第6話で光圀、助、格、弥七、うっかり八兵衛が高田藩を訪れたとき、越後騒動から14年の設定。
越後騒動は1679年(延宝9年)に始まり、終わったのが1681年。1681年は第40部で扱われた庄内藩の前藩主・酒井忠義の没年と同じ。
越後騒動開始から14年後は1693年、終結から14年後は1695年になるが、1695年では計算が合わない。
1年の誤差を考えて、第4部が1694年だったとすると、第40部もぎりぎり1694年、密姫は13回忌の翌年に鶴岡で光圀と再会したことになる。
一方、第4部第1話で光圀は「江戸に来たのは2年ぶり」と言っているので、隠居して2年だと1692年。これは越後騒動開始から13年後だが、開始の年を1年目として14年目とすると、これまたぎりぎり計算が合う。また、光圀が西山荘に住むようになったのは史実では隠居の翌年の1691年かららしいので、その年まで江戸にいたと假定すれば2年後は1693年になる。
前後一覧
令和5年10月
【2023年10月のブログ|虚実歴史のブログ (ameblo.jp)】
【2023年10月09日 - Twilog (togetter.com)】
/2023年10月12日 - Twilog (togetter.com)/
関連語句
【松方弘樹 水戸黄門 - 検索 / X (twitter.com)】
注釋
失踪
実際、時代劇に多い藩主や将軍家関係者の忍び旅は公的には失踪とされている。『暴れん坊将軍』の水戸綱條、『殿さま風来坊かくれ旅』の紀伊治貞と尾張宗睦もそうだが、治貞と宗睦の場合は10代将軍・徳川家治が事態を把握しており、護衛の隠密を派遣していた。
江戸にいたはずだから
いつも江戸にいて地元にいない藩主が藩主と言えるのか疑問。綱條ももっぱら江戸にいたのでは。こうなると光圀のように隠居して地元に戻ったほうが政ができるのではないか。隠居して10年間、水戸にいた光圀は幸福で、藩主在職中に1718年に没した綱條は水戸にどれだけ帰れたのか。
その意味では第40部に登場した光圀の姪・密姫も同様で、鶴岡庄内藩の藩主に嫁ぎながら、もっぱら江戸住まい。光圀と会ったのは1681年に没した前藩主・酒井忠義の法要(おそらく13回忌の1693年)にお国入りしたとき。江戸時代、藩主も藩主の妻も紙切れだけだったのだろう。
参照
平成22年BLOG
令和5年BLOG