┌『水戸黄門』同行者の変遷・補足
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第40部で松尾芭蕉が江戸にいたとき、うっかり八兵衛がちゃっかり八兵衛と交代した。芭蕉没年は1694年なので、うっかり八兵衛のお供はその前になる。
第40部で光圀たちが鶴岡を訪れたとき、庄内藩主・酒井忠真に嫁いでいた密姫は義父に当たる前藩主・酒井忠義の法要のためお国入りしていた。
忠義は1681年没なので13回忌とすると1693年になる。
第4部第6話で光圀、助、格、弥七、うっかり八兵衛が高田藩を訪れたとき、越後騒動から14年の設定。
越後騒動は1679年に始まり、終わったのが1681年。1681年は第40部で扱われた庄内藩の前藩主・酒井忠義の没年と同じ。
越後騒動開始から14年後は1693年、終結から14年後は1695年になるが、1695年では計算が合わない。
1年の誤差を考えて、第4部が1694年だったとすると、第40部もぎりぎり1694年、密姫は13回忌の翌年に鶴岡で光圀と再会したことになる。
一方、第4部第1話で光圀は「江戸に来たのは2年ぶり」と言っているので、隠居して2年だと1692年。これは越後騒動開始から13年後だが、開始の年を1年目として14年目とすると、これまたぎりぎり計算が合う。また、光圀が西山荘に住むようになったのは史実では隠居の翌年の1691年かららしいので、その年まで江戸にいたと假定すれば2年後は1693年になる。
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第40部で松尾芭蕉が江戸にいたとき、うっかり八兵衛がちゃっかり八兵衛と交代した。芭蕉没年は1694年なので、うっかり八兵衛のお供はその前になる。
忠義は1681年没なので13回忌とすると1693年になる。
越後騒動は1679年に始まり、終わったのが1681年。1681年は第40部で扱われた庄内藩の前藩主・酒井忠義の没年と同じ。
越後騒動開始から14年後は1693年、終結から14年後は1695年になるが、1695年では計算が合わない。
1年の誤差を考えて、第4部が1694年だったとすると、第40部もぎりぎり1694年、密姫は13回忌の翌年に鶴岡で光圀と再会したことになる。
一方、第4部第1話で光圀は「江戸に来たのは2年ぶり」と言っているので、隠居して2年だと1692年。これは越後騒動開始から13年後だが、開始の年を1年目として14年目とすると、これまたぎりぎり計算が合う。また、光圀が西山荘に住むようになったのは史実では隠居の翌年の1691年かららしいので、その年まで江戸にいたと假定すれば2年後は1693年になる。
第40部の鶴岡の話は忠義の13回忌とすると、忠義没から12年後なので越後騒動から数えても12年後の話になる。
また、第40部に登場した松尾芭蕉が没したのは越後騒動から13年後なので、14年後だと芭蕉死去直後であり、「越後騒動14年後」を描いた第4部でうっかり八兵衛が相変わらず光圀のお供だったのはおかしいことになる。
また、第40部に登場した松尾芭蕉が没したのは越後騒動から13年後なので、14年後だと芭蕉死去直後であり、「越後騒動14年後」を描いた第4部でうっかり八兵衛が相変わらず光圀のお供だったのはおかしいことになる。
光圀が隠居した1690年は越後騒動から9年後、10年目と言っていい。だから第4部の高田藩の話は「越後騒動から10年」という設定でもよかったわけだ。
第28部でのちの吉宗と思われる新之助が登場。吉宗が新之助と名乗ったのが元服後とすると1696年以降も考えられるが、第28部はうっかり八兵衛が同行していた時期なので、第40部の時代設定より前だろう。
第38部でものちの吉宗が登場し、ここでは名前が源六。こちらは名前から見て元服前のように思えるが、紀州を離れた光圀一行が敦賀についたときに、この年が元禄丁丑年(1697年)と判明している。第38部では両八兵衛ではなくおけらの新助が同行していたので、時代設定上は問題ない。もっとも新助と両八兵衛の順序が放送と時代設定で異なる。
放送順では新助はうっかり八とちゃっかり八の間だが、時代設定ではちゃっかり八兵衛の「お供就任」の3年後か4年後に新助がお供になっていたことになる。
放送順では新助はうっかり八とちゃっかり八の間だが、時代設定ではちゃっかり八兵衛の「お供就任」の3年後か4年後に新助がお供になっていたことになる。
『水戸黄門』は光圀の隠居していた10年を40年で描いているので4種類のパラレルワールドと考えられる。第4話、第28話、第40話などの時代設定の問題はこれらを一つの世界と考えたからであろう。
└→『水戸黄門』第4部の時代設定などについて追加
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