@npbOP_bot 1974年、番場蛮が中日戦で分身魔球の投げ過ぎで心臓麻痺を起してマウンド上で急死。阪神の藤村甲子園が長嶋茂雄と対戦。捕手の岩風が引退。阪神の王島と東京メッツの唐部、丘、富樫、日下部、火浦、長島太郎が1年目。山田太郎が明訓高校入学。

午前11:10 · 2013年1月4日

 

 
星一徹は星飛雄馬やオズマを殴って鍛えたがあれは「巨人の星」の連載があった時代で既に「古かった」らしい。
 
女子バレーボールも昔は軍隊式の指導が普通だったらしい。
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居残り、掃除、当番を増やすことは体罰ではないが、長時間の正座は今では「体罰」とされるらしい。排球部の場合、平手で2回叩くだけで今では「体罰」とされるらしい。隔世の感がある。
 
1969年のプロ野球開幕前のキャンプの時、中日のコーチになった星一徹がオズマを竹刀で殴って鍛えようとした時、オズマも周りの記者もこれを時代遅れと認識していたようだ。水原監督は「我々が野球を始めた頃のような鬼コーチがまた現れたな」と言っていた。
 
日本一寒い町。歓喜の声があがったらしい。「歓喜(クワンキ)」でなく「寒気(カンキ)」だろう。
 
星飛雄馬が小5だった時の冬、早朝マラソンでいつものコースが工事中で飛雄馬が近道を選んだ。一徹は待ち構えて飛雄馬を殴り倒し、何度も蹴りまくった。今であれば児童虐待だろう。
 
星飛雄馬が8歳の時、一徹の野球スパルタ教育を嫌がって、長屋の路地に放り出された。これも今であれば児童虐待だろう。
 
@kyojitsurekishi 星一徹は飛雄馬とオズマを殴って鍛え、オズマに対して「野球の奴隷になれ」と命じた。一徹がオズマを竹刀で殴ったのは自分への服從でなく仕事への服從を命じたものだ。結果、オズマは戦争の傷がもとで命を落とし、飛雄馬はプロ3年で左腕を破壊して一時失踪した。
posted at 11:18:53
 
梶原一騎原作の「柔道讃歌」では高校柔道部のコーチが浜辺で部員にマラソンをさせ、疲れて「もう動けない」と言った部員を次々を海に放り投げ、その部員たちが必死に泳いで浜辺に戻ると、コーチは「泳げるではないか」。
 
桑田真澄(1968年4月1日~)と清原和博(1967年8月18日~)が小学生だったのは1974年4月から1980年3月まで。「侍ジャイアンツ」が終了し、「ドカベン」「野球狂の詩」が人気となり、「新巨人の星」の原作も1976年から79年まで連載。
 
「ドカベン」では、山田太郎にとって高2夏の予選の時期(1978~79年頃)の作品で吉良高校と対戦したチームが試合中に水を飲まなかったので熱中症で倒れて棄権。吉良高校の面々は試合中にたっぷり水を飲んでいた。
 
桑田・清原コンビが小学5年生か6年生だった頃の日本のスポーツ界では、練習や試合中に水を飲むことが厳禁されていたことがわかる。
 
清原和博は昭和42年8月生まれで、桑田真澄は昭和43年4月1日生まれであり、学年で言えばどちらも昭和42年度生まれになる。「昭和40年男」と比べるとKKコンビは2歳か3歳年下になる。伊藤つかさは昭和42年2月生まれなのでKKより1年先輩だろうか。
@kazuyo_k 桑田真澄氏は1968年生まれで、校内暴力が問題化して体罰も日常的だった1980年代前半に中学生だったようです。彼は中学卒業まで繰り返し体罰を受けたようで、それで体罰に反対する立場になったのは考えさせられる話です。
posted at 12:58:16(<related tweet) 
 
@sukonbask @kazuyo_k 宇梶剛士氏は1962年生まれで77年当時15歳。桑田真澄氏は68年生まれだから83年当時15歳。70年代末~80年代初めの「金八」「積木くずし」「スクールウォーズ」の時代に思春期だったわけですね。「ブラックボード」第2夜の世界です。
posted at 13:10:08(<related tweet
 
@s40otoko 昭和40年男の皆さんは昨今の体罰をどう考えますか。昭和43年男である桑田真澄氏は自らの経験から体罰反対を訴えています。
posted at 15:05:34
 
@kyojitsurekishi 体罰について世代論で分析してみる。桑田真澄は1968年4月1日生まれ。長嶋一茂は1966年1/26生まれ。橋下徹は1969年6/29生まれ。この世代は校内暴力が問題化した1980年代に中学・高校時代を過ごし、多少は先生から殴られた記憶もあるはず。
posted at 15:27:15 
 
桑田真澄、長嶋一茂、橋下徹は1960年代後半(昭和40年代初め)に生まれて思春期の時に体罰を受けたはずだが、その結果、近い世代でも体罰を否定する側と逆に必要だと思う側の両方が出る結果となっている。
 
 ドラマ「ブラックボード」第1夜と第2夜にあるように1945年の「終戦」当時、子供時代または思春期だった世代は上の世代に対する不信感と反戦思想を持ち、1980年代には学校の先生や親の世代になっていた。その世代の中に「暴力教師」もいたわけだ。
 
例えば中沢啓治の「はだしのゲン」を見ると「終戦」当時小学生だった中岡元は反戦主義になりながら喧嘩の得意な少年だった。その父親も反戦思想を持って非国民と呼ばれてたが息子を平気で殴る父親だった。皮肉なことに日本の反戦思想が体罰を生んでいるようだ。
 
@cinziro 一徹は竹刀でオズマを殴って鍛えていました。
中沢啓治は1939年生まれなので1970年当時31歳で、1980年当時41歳。中沢啓治は漫画家になったが、1970年代から80年代にかけて学校で教育者として「熱血指導」をしていたのは大体この世代か、もっと上の世代だったということになる。
 
桑田真澄は高校に入ってから体罰を受けなくなったらしいが、それでも「練習中に水を飲むとバテる」という迷信が信じられていた時代で、水道の蛇口が針金で固定されていたらしい。こんな日本が世界のスポーツ界で優位に立てるわけがない。
 
飛雄馬が小5だった時の冬(推定11歳)のマラソン近道事件でも、飛雄馬は一徹から何度も殴られた。一徹によって殴られて育った飛雄馬は18歳になっても小5の時に一徹から受けた教えを優先し、川上監督の登板命令に背いて二軍落ちを志願した。
 
「巨人の星」の星飛雄馬は幼い頃、父・一徹から殴られて鍛えられた。その結果、飛雄馬は19歳まではチームや監督より父の教えや父を乗り越えることを優先し、監督命令に逆らって勝負したり、逆に登板を拒否したりして、左投げ時代はプロとしては3年で終わった。
 
 
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