与那嶺要氏が死去…巨人、中日でプレー、中日監督としても実績(2011年3月1日22時37分 スポーツ報知)
└→この記事で「母国で数年前からガン治療を続けていたが、1月に様態が悪化していた」とある。「様態」はこういう文脈では「容態」ではなかろうか。だが「様態」でも意味は通る。
Y!Japan 様態 容態
Google 与那嶺要 様態
GyaO!の『新巨人の星II』では原作の1977年前半戦に飛雄馬が二軍に落とされて球宴前に復帰したあたりから、いきなり大リーグボール右1号となり、その後は時代設定が曖昧になっている。
巨人のOBたちが巨人の優勝を阻止することが日本プロ球界のためになるということをアニメ『巨人の星』で水原茂が語っていた。時代設定は1969年の春季キャンプの時期であった(「水原監督と星一徹」)。
川上巨人時代、ライバル球団の監督は中日の水原、与那嶺、阪神の藤本定義、アトムズ(→ヤクルト)の別所など、巨人のOBがそろっていた。
川上巨人時代、ライバル球団の監督は中日の水原、与那嶺、阪神の藤本定義、アトムズ(→ヤクルト)の別所など、巨人のOBがそろっていた。
与那嶺要は1970年のシーズンから水原中日のヘッドコーチだったようだが、『巨人の星』ではこのシーズンでは前年から星一徹が引き続きコーチを担当し、巨人から引き抜いた伴を鍛えていた。
与那嶺要が梶原野球漫画に登場したのは『侍ジャイアンツ』からで、水原茂から中日の監督を引き継ぎ、劇中で大砲万作を獲得し、番場蛮のハイ・ジャンプ魔球や大回転魔球と対戦した。
水島新司原作の『野球狂の詩』でも時代設定が1973年、1974年の場合、阪神の監督は金田正泰であり、中日では与那嶺が監督で、星野仙一が現役の投手だったはずだ。
1973年、巨人の自力優勝が一時、なくなったが、中日が阪神を破った漁夫の利で巨人が優勝の可能性を保ち、阪神を破ってV9達成。
アニメ『侍ジャイアンツ』では大砲が場外ホームランを放ち、番場が新幹線からそれを見届けた。
しかし、それは巨人の時代の「終わりの始まり」であった。
翌年、巨人を破ったのが中日だったからだ。
原作『侍ジャイアンツ』最終回、番場蛮の相手は奇しくも大砲万作だった。
アニメ『侍ジャイアンツ』では大砲が場外ホームランを放ち、番場が新幹線からそれを見届けた。
しかし、それは巨人の時代の「終わりの始まり」であった。
翌年、巨人を破ったのが中日だったからだ。
原作『侍ジャイアンツ』最終回、番場蛮の相手は奇しくも大砲万作だった。
1974年、番場蛮がマウンドで急死、巨人の連続優勝が止まり、中日がセ・リーグ優勝。金田正一率いるロッテとの日本シリーズとなった。
番場蛮は入団当時、「巨人を中から倒す」と言っていた。具体的にどうやって「中から倒す」かわからなかったが、結果として巨人を倒したのは巨人OBの与那嶺であった。番場のサムライ魂が中日や阪神、広島、ヤクルト、大洋に乗り移って、巨人の時代を終わらせたとすると、番場は巨人を「中から倒してしまった」(下注釋)ことになる。
番場蛮は入団当時、「巨人を中から倒す」と言っていた。具体的にどうやって「中から倒す」かわからなかったが、結果として巨人を倒したのは巨人OBの与那嶺であった。番場のサムライ魂が中日や阪神、広島、ヤクルト、大洋に乗り移って、巨人の時代を終わらせたとすると、番場は巨人を「中から倒してしまった」(下注釋)ことになる。
2010年の中日とロッテの日本シリーズは1974年から36年ぶりの対戦であった。
梶原一騎原作の『新巨人の星』では1976年前半戦、与那嶺監督が星飛雄馬のスクリュー・スピン・スライディングに対しアメリカ式の防護策を提案し、野手に教えたが、通用しなかった。高木守道は『巨人の星』時代から『新』まで現役選手であった。
『新巨人の星』の終盤の「新魔球の章」では1978年のシーズンが舞台で、1978年正月、星飛雄馬が伴宙太、星一徹の協力でハワイで投球練習をしていたとき、与那嶺がそれを目撃。星、伴たちと話し、日本で長嶋茂雄に報告していた。このとき、与那嶺氏は亜希子夫人に「おー、ミセス亜希子(注釋)、いつ見てもビューティフルですね」と言っていた。
与那嶺氏の長男の名前はボールらしい。bowl だったら器だが、ball であれば球であり、日本人名なら「玉夫」に相当するか。「玉緒」「珠緒」なら女性名に多い。野比のび太の母は片岡玉子であり、女流画家・片岡球子(1926~2008)と読みが同じである。
日本野球変えた「ウォーリー」与那嶺要氏、死去(2011年3月2日 スポーツニッポン)
└→この記事で「94年に外国人選手として初の野球殿堂入り」とあるが、スタルヒン(ロシア出身、ソ連成立で無国籍に)が1960年に選出されており、1990年に張本勲(韓国籍)が選ばれ、王貞治(中華民国籍)は与那嶺と同じ1994年選出である。Google 与那嶺 スポニチ
補足
1970年のシーズン、水原監督指揮下の中日で与那嶺要がヘッドコーチだったようだが『巨人の星』では星一徹が前年から引き続きコーチを担当し、オズマに代わって巨人から伴を獲得していた。一徹、伴師弟と与那嶺が直接出会ったのは『新巨人の星』原作で描かれた1978年の正月、場所はハワイであった。一徹、伴と与那嶺でどういう会話がなされたかは、わからない。「巨人OBで元中日」の元野球選手が3人そろったことになる。なお、『新巨人の星』では伴宙太は巨人OBである長嶋茂雄と一緒のときも記者から「元中日」と言われて、巨人時代が無視されていたようであった。
1970年のシーズン、水原監督指揮下の中日で与那嶺要がヘッドコーチだったようだが『巨人の星』では星一徹が前年から引き続きコーチを担当し、オズマに代わって巨人から伴を獲得していた。一徹、伴師弟と与那嶺が直接出会ったのは『新巨人の星』原作で描かれた1978年の正月、場所はハワイであった。一徹、伴と与那嶺でどういう会話がなされたかは、わからない。「巨人OBで元中日」の元野球選手が3人そろったことになる。なお、『新巨人の星』では伴宙太は巨人OBである長嶋茂雄と一緒のときも記者から「元中日」と言われて、巨人時代が無視されていたようであった。
関連語句
与那嶺 与那嶺 巨人の星 与那嶺 侍ジャイアンツ 与那嶺 野球狂の詩
注釋
『巨人の星』プロ野球編の星飛雄馬
星飛雄馬の誕生日は4月2日から7月までの間。
プロ野球編の星飛雄馬は1951年生まれで1967年で16歳。
いずれにせよ西暦2011年の夏までに星飛雄馬は還暦を迎えるわけである。
└→星飛雄馬年齢変遷(プロ野球編)
与那嶺 与那嶺 巨人の星 与那嶺 侍ジャイアンツ 与那嶺 野球狂の詩
注釋
『巨人の星』プロ野球編の星飛雄馬
星飛雄馬の誕生日は4月2日から7月までの間。
プロ野球編の星飛雄馬は1951年生まれで1967年で16歳。
いずれにせよ西暦2011年の夏までに星飛雄馬は還暦を迎えるわけである。
└→星飛雄馬年齢変遷(プロ野球編)
ミセス亜希子
Mrs. は英語では Mrs. Nagashima のように苗字につけるのではなかろうか。ただ、個人名につけるというのは個人を尊重している。もし英語が国際語となったのであれば英語圏の白人英語だけが正しいとは限らない。英国標準英語を差し置いて多くの日本人がアメリカ方言を学んでいる。
参照
1972年I――日中国交回復、与那嶺要が大砲万作を獲得
スポーツ全般、梶原vs水島他(2011年3月)
Mrs. は英語では Mrs. Nagashima のように苗字につけるのではなかろうか。ただ、個人名につけるというのは個人を尊重している。もし英語が国際語となったのであれば英語圏の白人英語だけが正しいとは限らない。英国標準英語を差し置いて多くの日本人がアメリカ方言を学んでいる。
参照
1972年I――日中国交回復、与那嶺要が大砲万作を獲得
スポーツ全般、梶原vs水島他(2011年3月)