1990年~93年――『よみがえれ侍』 

講談社漫画文庫『侍ジャイアンツ』第1巻によると、番場蛮が6歳のとき、蛮の父親が海で没しており、ユキは当時、母の胎内にいた。すると、ユキは1960年か1961年生まれ。番場蛮が没したとき、14歳。
1991年にはユキは31歳だったが、番場蛮の甥が巨人入団当時、15歳くらいだったとすると、ユキは16歳前後で出産したことになる(2009年1月11日)。

@kyojitsurekishi「よみがえれ侍」で番場蛮の甥は伯父と同じ背番号4を背負っていたが、黒沢俊夫(黒沢年男は別人)と番場蛮という2人の殉職者を出した「不吉」な背番号を背負うことなど、普通はやらないだろう。ユキはどういう心境だったか。すぐに背番号は変更されただろう。
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1991年を最後に甲子園のラッキーゾーンが撤去された。この話は水島新司の短編集『I Love Baseball』に収録された「ラッキーゾーン」で描かれている。この短編集には「ドカベン(番外編)新潟明訓対神奈川明訓」も収録されている(2009年2月28日)。
└→『ドカベン』で描かれた1990~94年

1991年、安倍晋太郎が67歳で死去。日本の日本語ニュースでは自民党の元幹事長という紹介だったが、日本で出ていた英文紙では former foreign minister、つまり「元外務大臣」という紹介であった。

Wikipedia 安倍晋太郎>関連項目 では、安倍晋太郎は第24代自民党幹事長で、在職期間は1987~1989年。前任者は竹下登(第23代幹事長)で、後任は橋本龍太郎(第25代)で、そのまた次は小沢一郎(第26代)であった。
つまり、安倍晋太郎は橋本幹事長の時代は「前幹事長」であり、小沢幹事長の時代から「元幹事長」になった。
Wikipedia 自由民主党幹事長>歴代の自由民主党幹事長 を観ると安倍晋太郎が没した1991年5月15日当時、小渕恵三が第27代幹事長で、總裁は海部俊樹(第14代)であった。
したがって、安倍晋太郎が没したとき、自民党の前幹事長は小沢一郎で、竹下登(元首相)と安倍晋太郎は元幹事長だったことになる。

1991年、『ターミネーター2』が公開された。ちょうど、ソ連解体の直前で、シュワルツェネッガーの台詞の中の Russia は最初の日本語吹き替えで「ソ連」になったがのちにそのまま「ロシア」に戻されたと想う。

西暦2009年度で高校生である人たちは1991年4月2日から1994年4月1日までの間に生まれた。
1991年ソ連崩壊、92年松井英喜5打席連続敬遠、93年に大洋ホエールズが横浜ベイスターズになり、ドラマ『ポケベルが鳴らなくて』が放送された。

1992年に尾崎豊が死亡。
1965年に生まれ、1983年にデビューした尾崎豊が「15の夜」を作ったとき、自動販賣機のコーヒーは100圓だったがその後、消費税によって120圓となった。

尾崎豊は学校や家からの「自由」を求めたと歌っていたが、彼の死後、3年たって1995年に阪神・淡路大震災が起きた。大地震が起きれば学校も家も職場も破壊された、多くの人が学校の体育館で生活。現役の学生も「退屈な授業」どころではない。尾崎豊の死の翌年の1993年に細川内閣ができたが、この当時、「規制緩和」が合言葉で、若い労働者は終身雇用からの脱却、非正規、自由契約で職能に応じて轉職をするのが新しい生き方だと考えていた。神戸の地震から約10年たった小泉内閣は国民の圧倒的な支持のもとで構造改革を実施、派遣切り、各社社会が問題となった。少子化が加速し、学校以前に幼稚園には入れない待機児童が問題となり、ネットカフェ難民が増えた。批判はされるが、尾崎豊が求めた「学校や家からの自由」や「会社からの自由」が実現した結果が格差社会である。
2011年の東北関東大震災では家を失った人が増え、避難所になった学校で卒業式がおこなわれた。

尾崎豊が求めた「学校や家からの自由」など、所詮は学校や家に守れらる身分が保障された子供が求めた「夢」であり、実際に学校も家も職場も失った人間が本当の「自由」を得て喜べるか考える必要がある。
奇しくも1992年に秋元康作詞でとんねるずが「一番偉い人へ」を歌っており、尾崎豊の「卒業」の続編、自ら大人になって「大人を批判すること」からの卒業、「窓ガラスを割らないルール」を強調していた。
1996年の酒井美紀のシングル曲「涙よりもっと孤独」(作詞は別の人)では学校の制服を着ていたころの自分たちを縛っていた規則が、実は自分たちを守っていたことが歌われている。

「管理教育はいけない」と言われながら、学校でバタフライナイフによる殺傷事件でも起きれば「管理はどうなっていたのか」と言われるのが常で、海外では学校で子供が銃を撃って級友を射殺する事件も起きる。尾崎豊の歌った「10代の悩み」も日本の学校という温室で守られた子供ならではの感覚だったわけだ。
尾崎豊もそれをわかっていたはずだが、10代の自分からの卒業を示す心境を明確に歌で示してヒットさせる前にこの世を去ったように見える。
人間が年を取って定年退職し、一人暮らしの老人になれば自動的に尾崎豊の言う「学校からの自由」が手に入る。年取ったホームレスは家からも学校からも「自由」である。尾崎豊が四半世紀前にそこまで考えていたかどうか疑問ではある。


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2009年9/12


漢字論原点回帰II>「邦之禮守」