─────────────『新巨人の星』および『ドカベン』と1978年/
_____└→金八先生

1960年代の始まり

1978年は『1リットルの涙』の木藤亜也氏(1962~1988)が16歳になった年である。彼女は中3から脊髄小脳変性症を患(わずら)い、愛知県豊橋市の東高校に入学するが、1年で養護学校へ轉校することとなる。
└→1982年

 

映画『1978年、冬』では中国の78年当時を描いているようだ。文化大革命が終わって新体制が始まり、日中平和友好条約調印。
www.1978-winter.com/

 

原作『新巨人の星』の最終回、横浜球場での試合で左門は蜃気楼の魔球を打つが、王貞治の美技にはばまれ、試合は星が勝った(文庫6巻「新魔球の章」)。しかし、蜃気楼の魔球はもう通用しない。ここで原作『新巨人の星』は終わり、78年はヤクルトが優勝した。
しかし、アニメ『新巨人の星II』では花形が途中で引退したため、星は勝ち続け、巨人はセ・リーグでも日本Sでも優勝するという風に歴史が変更(捏造)された。そして、一徹がアパートで息を引き取り、同時に花形と明子の間に子供が生まれた。この子供の性別は不明だが、生年からいって酒井美紀(学年は1つ上)、浜崎あゆみ、間下このみ、釈由美子などと同世代である。岩崎恭子、小田茜もそうだった。花形満と星明子の間の子供と同い年。

 

アニメ『新巨人の星II』では飛雄馬が大リーグに移籍することとなり、アメリカに行く直前に飛雄馬に江川が挨拶したらしい。
一方、原作漫画の続編・梶原一騎原作、影丸譲也作画の『巨人のサムライ炎』では、79年のシーズン、江川の投球練習中に水木炎が乱入し、江川の投げた球を打ったらしい。長嶋監督は飛雄馬を水木と勝負させ、結果は飛雄馬の勝ち。

 

ちなみに、『ドラえもん』第1話の設定では、この79年、のび太が大学受験で落第するはずだったが、のび太は80年代以降も小学生であった。
この「1979年大学受験」はてんコミ第1巻「未来の国からはるばると」の設定であり、雑誌掲載当時は1978年に大学を受験する予定であった。雑誌掲載当時ののび太は1959年8月7日生まれ、てんコミ掲載では1960年8月7日生まれになる。
てんコミ第2巻の「ぼくの生まれた日」の場合、雑誌掲載当時ののび太は1962年生まれで、単行本では1964年生まれ。この場合、1978年または79年当時は中学生だから大学を受験しても落ちるのは当然である。
のちに1978年夏にはシンエイ動画によるパイロット版「勉強部屋のつりぼり」ができている。
「恐竜が出た!?」ではドラえもんが1979年(昭和54年)の新聞を観ており、このときものび太は小学生だった。

 

右腕の飛雄馬は小林繁投手の救援で登板したことがあったが、小林繁は江川とひきかえに阪神に移籍。この前後の様子は『がんばれ!!タブチくん!!』で描かれた。タブチが阪神から西武に移籍したころであった。

 

79年のシーズン中、飛雄馬は長嶋監督から「来季は現役選手として契約できまいが、コーチとして球団に残ってほしい」という内容の内々の要請を受け、二軍コーチに就任し、水木炎を鍛えた。1969年初め、長嶋の前任者・川上が一徹に二軍コーチ就任を要請して断られたが、10年たって飛雄馬がその要望に応えた結果となった。
水木は巨人の入団テストに合格し、飛雄馬は大LB養成ギプスを水木に贈呈。

 

 

追加
夏の甲子園で明訓高校が弁慶高校に敗れる大波乱。土井垣監督は監督を辞任、甲子園大会が終わらぬうちに大沢監督の待つ日本ハムに入団した。これは山田、岩鬼らが2年生の夏休みのとき。
彼らは74年春に入学したので、普通に考えると75年夏。しかし、土井垣が日ハムに入ったとき、土井垣の初打席初本塁打を報じる新聞に歴代の初打席本塁打リストがあり、その中に巨人の中井康之選手の昭和54年(1979年)4月11日のデータがあった。山田たちは高校2年まで進学するのに5年の歳月を要したのか?

 

鎌倉時代に東北に逃れた義経と弁慶一行が山伏の姿をしていたことの影響か、弁慶高校の中心選手は武蔵坊数馬と義経光で、試合以外では山伏の姿をしていて、1975年から79年までの時期に弁慶の大往生と義経の八艘跳びで神奈川の明訓高校を倒した。やはり鎌倉(神奈川)への遺恨であろうか。
└→『ドカベン』高2

 

 

 

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