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1975年(3)76年(1)(2)77年、78年I、78年II~79年
───────────────└→『ドカベン』と1978年


1978年I――『新巨人の星』蜃気楼の魔球(「新魔球の章」)、ツバメ返し打法
1978年(昭和53年)正月、飛雄馬、一徹、伴宙太がハワイで特訓。ここで飛雄馬は現地の人から江川卓に間違えられた。江川はクラウンライター・ライオンズの指名を蹴って渡米していた。この年から古巣・巨人に戻った与那嶺要がハワイで星を目撃。

星飛雄馬は大リーグボール右1号・蜃気楼の魔球を完成させる。球が3つに見える魔球だが、番場蛮の分身魔球と同じく、捕手が捕る技術は、打者が打つ秘訣でもあった。また、オズマの見えないスイングなら幻でも実体でも三つのボールをすべて打てただろう。
阪神のロメオ・南条は「こんな手品の相手にはならん」と魔球に背を向け、合間の速球を打って、ピッチャー返しで飛雄馬を倒そうとしていた。一徹が長嶋に助言し、「打球が必ず投手の方向へ来る」と予測できる利点を生かした巨人守備陣の連係プレーで南条を破った。

ヤクルトの花形は実体のボールが地面に影を落とすことを見抜き、攻略。ヤクルトの広岡監督は球団の有利を保つため、この打法を秘密にし、巨人では長嶋監督の命令で、星は花形のいるヤクルト以外の中日や広島を相手に魔球を投げ続けた。これは左腕時代にはなかったことで、飛雄馬も普通の選手になったと言える。しかし、巨人が星の魔球で勝ち続けたことが、魔球の通用しないヤクルトの順位を上げてしまう結果をもたらした。星が左腕時代に打たれた魔球を封印していた理由もそこにあった。

一方、アニメの『新巨人の星II』では、花形が一徹から大リーグボール養成ギプス(身体を縛る複数のバネ)を譲り受けて、「ツバメ返し打法」で蜃気楼ボールを攻略。このときから20年前の少年時代、花形は飛雄馬の大LB養成ギプスを観て「理想的な筋力増強法」と評価したものの、原作では花形は鉄バットは使ってもバネは使わなかった。しかし、アニメでは花形は最終的に大LB養成ギプスを使ったようだ。
花形はそれで身体を壊し、シーズン中に引退。

WOWOWで放送された『巨人の星【特別篇】猛虎 花形満』のホームページ(WOWOW【特別篇】猛虎・花形満)に掲載された元『少年マガジン』編集長・宮原照夫と川崎のぼるの対談によると、星飛雄馬と花形満の設定のモデルは、「宮本武蔵の少年時代と佐々木小次郎」らしい。
『猛虎・花形満』のHP→www.wowow.co.jp/hanagata/contents.html

宮本武蔵といえば、『巨人の星』では、1978年正月に一徹と明子が初詣をした際、「武蔵が神に祈ろうとしてやめた話」が飛雄馬の台詞で紹介され、これは以前、一徹が飛雄馬に教えたものだった。一徹は飛雄馬の弱点に気づき、タブだった神頼みをするほどだった。また、原作『侍ジャイアンツ』でも70年代に明治神宮で番場蛮が必勝祈願のあと食事をしていたとき、ヤクルトの眉月光が同じ話をする場面があった。

『新巨人の星』で花形は眉月のいたヤクルトに入団し、チーム名は国鉄時代のスワローズに戻った。そして、「ツバメ返し」といえば、佐々木小次郎の剣法である。『新巨人の星II』で花形は原点である佐々木小次郎に戻ったと言える。

左門豊作の大洋ホエールズは1978年から「横浜」大洋ホエールズになっていた。ホーム球場も川崎球場から横浜球場に移った。横浜という町は、星飛雄馬が花形との試合の前後に、左門と始めて会った場所でもあった。


1978年、鄧小平(Deng Xiaoping)による改革開放政策が始まった。
鄧小平の生涯は2003年の映画『鄧小平』で描かれている。
雅虎
鄧小平 電影 盧奇 2003 で検索

補足
アニメの『新巨人の星II』の場合、時代設定が1978年かどうか明確ではない。1977年のシーズン開幕の時期、花形がヤクルトに入り、左門が星飛雄馬の投球フォームから球種を読み、星が二軍に落とされてフォームを改良するあたりから、青雲高校の後輩・丸目の入団、そして蜃気楼ボールの開發、咲坂洋子の出現につながるので、原作で描かれた1977年(飛雄馬弱点克服→鷹ノ羽圭子編)と1978年(蜃気楼の魔球)が混ざったような話になっている。『新巨人の星II』で描かれた日本シリーズは最終回、巨人と阪急の試合で、劇中では巨人が日本一になったが長嶋監督の第1期では巨人は日本一になっていない。星飛雄馬が大リーグに移籍する寸前、巨人の練習場(おそらく多摩川グラウンド)を訪れたとき、丸目が江川のボールを受けていたので、この時期には1979年開幕前になっていた可能性がある。すると3回あったはずに日本シリーズが1回しか描かれていないことになる。

『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』第5号によると1978年5月23日に広島が最下位から脱出したのとほぼ入れ替わりに阪神が最下位に沈んでいる。原作『新巨人の星』の「新魔球の章」で巨人が阪神のロメオ・南条のピッシャー返しを破り、阪神が巨人にとって脅威でなくなった。さらに5月末から6月前半にかけて、巨人が首位から2位に後退したのと入れ替わりにヤクルトが首位に浮上している。『新巨人の星』では花形が蜃気楼の魔球を打ち、巨人が中日、広島を相手に勝ち続けたことで、ヤクルトが蜃気楼の通用しない漁夫の利で浮上。
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ヤクルトは8月に一旦2位に後退し、首位を巨人に明け渡すが、9月に首位を奪還し、1978年のセはヤクルトが優勝した。
『新巨人の星』の最終回の試合は1978年に巨人が横浜で大洋と試合をして巨人が勝った試合で、前半戦で6月以降とすると該当するのは6月9日と11日で、間の10日にもあったがここでは大洋が勝っている。

1978年(昭和53年)は関東地方のプロ野球の球団に関するニュースが多かった。
大洋が川崎から横浜に移り、ロッテが仙台から川崎に移動
ヤクルトが優勝
巨人「江川事件」
西武がクラウンライターライオンズを買収し、本拠地が九州から所沢に移動
2018年9月12日2:12