霊山登山リベンジ(前篇) | 京一花日記帳

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それは、夏の日差しがさんさんと降り注ぐ、7月下旬のこと・・・
私は、歴史研究家の先生と、京都・東山の山中にいました。
目的は、前回の登山で見つけることができなかった、井上馨(かおる)氏の詩碑を見つけること。

ご興味のある方は、以前の記事をご覧ください。

霊山登山(前篇)   /  霊山登山(後篇)


~おさらい~
東山の山中、霊山と呼ばれるエリアには、伊藤博文氏と、井上馨氏の詩碑がひっそりと建てられている。
明治42年(1909年)、伊藤氏と井上馨氏は、木戸孝允(桂小五郎)氏の33回忌に参列するため、京都へ。
伊藤氏は、木戸氏のお墓参りの際、七言律詩を作り、それを同席していた中井慈眼氏に見せた。
すると中井氏が、「伊藤&井上」両氏の詩碑を、東山に建てることを提案、実現した。

前回の登山では、伊藤氏のほうの詩碑に出会えましたが、井上氏のほうはお預けとなっていました。
今回は、霊明神社ではなく、清水寺からの出発です。

まず先生は、清水寺の塔頭の、成就院に連れて行ってくださいました。



この成就院の住職さまは、月照(忍向)氏でした。
月照氏といえば、尊王攘夷・討幕派として活躍された人物です。
安政の大獄で西郷隆盛氏とともに薩摩に落ちますが受け入れられなかったため、西郷氏と入水しました。
西郷氏は奇跡的に一命を取り留めますが、月照氏は薩摩で亡くなりました。享年46歳でした。



成就院のすぐ近くには、月照氏、その弟で住職を継いだが同じく攘夷を唱え捕えられた信海氏、
そして西郷氏の詩碑がありました。




さあ、清水寺へ。



東山への登山口は、地主神社の右隣。



朝6時から、夕方5時半まで通ることができる。





登山の始まりは、いつもわくわくします!



少し登ると、開けたところに出ます。 「京都一周トレイル」の、分岐点⑲番にあたるらしい。



*京都一周トレイル*
京都の東南,伏見稲荷から,比叡山,大原,鞍馬を経て,高雄,嵐山,苔寺に至る全長約70キロのコースと,豊かな森林や清流,田園風景に恵まれた京北地域をめぐる全長約40キロのコースからなる。
いつか必ず歩いてみたいです。

「将軍塚」の方向へ進んで、



⑳番では、「東山山頂公園」の方向へ進む。
すると、思った以上に早く、そしてすんなりと、井上氏がお出迎えくださいました。



●表面・・・詩



「天懸海外三千界 月満人間幾百州」 侯爵井上世外

●裏面・・・建立の経緯



(大意)
碑の表に彫ったのは世外井上侯爵(井上馨)の詩(の一部)である。碑を建てたのは中井慈眼翁である。そもそも桓武天皇が遷都された平安京の地は,風光明媚であること無類である。慈眼翁はこの山水をひとつの公園となし景観を整備することに力を尽していた。
 このたび井上侯爵と春畝伊藤公爵(伊藤博文)がそろって木戸孝允の三十三回忌に列席するため来京した。井上侯の詩はこの時の作である。そこで慈眼翁は東 山に土地を選び井上侯の詩を刻んだ碑を建て,それによって山水の美におもむきを加え,豊かな国土の基礎をさらに整備しようと考えた。その志は実に美しい。
 わたし(筆者藤沢南岳)がおもうに,庭園は遠の人を招き寄せることがたいせつである。雉や兎やあるいは木こりであろうとも来る者を問わない周の文王の庭 園(孟子梁恵王下)がお手本である。そうすればその名はすみずみまで知られ,その美はあせることがない。こういう重いが慈眼翁の趣旨だと以上のとおり記す ものである。

こちら のサイトより引用させていただきました)

伊藤氏の詩碑と姉妹的存在であるといわれる通り、大きさといい見た目の雰囲気といい、とてもよく似ていました。

井上先生にお別れをして、また少しだけ登ると、ついに「東山山頂公園」に到着です。
そこにある、展望台からの景色



最高!!



前回と違って(笑)、ちゃんとした道を通っての登山でしたので、とても楽でした。時間も、登山口から30分くらい。

後篇に続きます。