幕末動乱の長州藩を巡る5 防府天満宮② | 京一花日記帳

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「霊山歴史館友の会ツアー・幕末動乱の長州藩を巡る」の続きです。

           

今回のツアーでは、防府天満宮を、この順番でご案内いただきました。


(防府天満宮さまhpよりお借りしました)

表参道を、萩にゃん…じゃなかった、
萩狛犬さまの横を通り過ぎて、長---い階段を上っていく途中、左手にあるのが、

①大専坊(だいせんぼう)跡



「大専坊」は、防府天満宮の、社坊のひとつでした。

*社坊(しゃぼう)*
神社のお世話をするために、神社の中、または近くにつくられた寺のこと。

防府天満宮の境内、この表参道の両側には明治維新まで、9つの社坊があったそうです。

9つの社坊すべてをまとめて「酒垂山萬福寺(さかたりやま まんぷくじ)」と呼び、
「大専坊」は、その別当坊だったそうです…!

*別当坊(べっとうぼう)*
社坊の中で、それらの寺を取りしきった寺のこと。

ここ「大専坊」は、天満宮創建当時につくられた社坊でありながら、ただ一つ現在も建物が残っているという、貴重な社坊です。(明治新政府による神仏分離で、ほとんどがつぶされたといいます。)

上の境内図を見ると、この門の奥に、大きな建物があることがわかります。かなり広そうです。
門がびっちりと閉められていて、入れないのが本当に残念。





ヒヨコ「大専坊」の、歴史ポイントヒヨコ

●弘治3年(1557年)に、毛利元就公が大内義長
氏を山口に攻め、防長両国を平定する時、
元就公の参謀本部であった。

●幕末、来島又兵衛(きじま またべえ)氏率いる、「遊撃隊」の本部であった。

*遊撃隊*
文久3年(1863年)、高杉晋作氏の創設した奇兵隊に触発された来島又兵衛氏が、
同じ年に、町人・農民・浪士らを集めて作った隊。
のちの亀山社中メンバー、池内蔵太(いけくらた)氏も隊員であった。
翌年の禁門の変では、先鋒として参戦。
(このとき、中岡慎太郎氏も遊撃隊に参加して戦い、足を負傷した。)
総督の来島氏を失うが、石川小五郎氏が引き継ぎ存続。
同年の暮れ、高杉晋作氏が功山寺で決起すると、ともに立ち上がり、俗論党と戦い勝利した。

元治元年(1864年)1月24日夜遅く、高杉氏(以下 晋作さん)が、ここ大専坊に来島氏を訪ねた。
→結果、晋作さんは勢いで脱藩、のちにその罪で野山獄に入獄することに…。

~流れ~

来島さん

「八月十八日の政変以後、藩の動きが遅すぎる・・・!
 無実を訴えるため、早く兵を率いて京に行かねば・・・」


藩主父子

「又兵衛の遊撃隊が血気盛んで心配じゃ…
これは長州藩の一大事。晋作よ、命をかけて又兵衛を鎮めよ」

(このころには、晋作さんはすでに藩の要職についていました)

晋作さん

「今は藩の力をつけるべき時であり、京に兵を送る時期ではない。
藩主の子(世子)直々の「藩命」、何とか応えねば」

(そして、ここ大専坊に来島氏を訪ね、説得にあたった。
3日かけ、3度訪問し説得したが、来島氏はうんとは言わなかった)

来島さん

「晋作よ、腑抜けになりおって…
誰が何と言おうと、京に出兵せねばならん!!」(鼻息荒い ※想像)

晋作さん

「わかった。
ではまず、自分一人が先に京に入り様子を見てくる。
京で情報収集にあたっている、桂さんや久坂の意見に従おう」

来島さん

「ふむ…」 ようやく、同意(?)

※言葉はすべて想像です(/ω\) すみません…

そして、晋作さんは、勢いづいてそのまま海から船で大坂へ。
藩の許可を得ずに行ってしまったため、脱藩扱いとなり、約2ヵ月後、萩の野山獄に入ることとなった。
(「月刊 高杉晋作」参照)



この門を、晋作さんはじめ、幕末の長州志士たちは、それぞれどんな思いでくぐっていたのか。
ああ、帰りたくない… (再々)