霊山登山(前篇) | 京一花日記帳

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京都は、しとしと雨が落ちています。

先週の土曜日、霊山歴史館の友の会でお知り合いになった歴史研究家の先生について、初めて、東山の霊山(りょうぜん)の山中に、お邪魔させていただきました。
霊山とは、霊山護国神社がある地域をさします。



霊山歴史館の上の道を登っていくと、霊山護国神社の大きな鳥居があります。(↑は、登りきって振り返ったところ)
「龍馬坂」と呼ばれる坂が、下から



上へと、つながっています。



この坂は、近江屋事件で亡くなった坂本龍馬氏、中岡慎太郎氏らのご遺体が通った坂であることから、「龍馬坂」と呼ばれています。

龍馬さんたちは、現在は京都霊山護国神社内の墓地に埋葬されていますが、霊山護国神社は明治元年の創建であり、幕末当時はありませんでした。
当時、龍馬さんらを埋葬・供養したのが、この霊明神社です。




*霊明神社*
文化6年(1809年)創設。
文久2年(1862年)、勤王家・吉田玄蕃氏の志により、長州清末藩(長州藩の支藩の支藩にあたる藩)の国学者・船越清蔵守愚のお墓をここに建てた。
その時、長州藩主の使者と長州藩士が参列したことがきっかけとなって、長州藩とつながった。
以降、長州藩士をはじめ、京で勤王の殉難志士が亡くなった際には、この霊山で神道葬をし、埋葬するしきたりとなった。
~主な出来事~
文久2年(1862年) …安政の大獄以降の「報国忠死の霊魂祭」が営まれる
元治元年(1864年) …池田屋事件の殉難者・吉田稔麿氏らが埋葬される
慶応3年(1867年) …近江屋事件で暗殺された坂本龍馬氏、中岡慎太郎氏、世話役・山田藤吉氏が埋葬される

明治元年(1868年)、霊明社の約1,800坪の境内地、墓地は明治政府のものとなり(上知令)、
そこに、日本最初の官祭招魂社として、京都霊山護国神社が建立された。
この地が、日本最初の官祭招魂社を建てる場所に選ばれたのは、
幕末、この霊明神社によって、志士の神霊を鎮め、慰霊している聖地であったからである。
(説明書き、書籍等より)

霊山護国神社の墓地へにお参りに行かれる際には、少し先まで登って、この霊明神社へも、お参りされてください…!

霊明神社の前の坂をさらに上ると、



左に入る道があります。
龍馬さんたち幕末の殉難志士は、この道を通り、供養されたそうです。
さらに坂を上ると、つきあたりが、



正法寺(しょうぼうじ)、というお寺になっています。(× しょうほうじ)
日中は、この門があいていて、中へ参拝できます。土曜日も、この先を進んで参拝してきました。

~正法寺からの眺め~



京都の街並みが見えます!土曜日は曇りと雨だったので、どんより…

さて、ここから、歴史研究家の先生の本領発揮であります!



(「京都 幕末地図本」よりお借りしました)
なんと、正法寺の建物の隙間を通って、矢印の方向へ進んでいきます∑ヾ( ̄0 ̄;ノ
いよいよ、登山らしくなってきました!

このような神聖な場所、登ってよいのだろうか…実は、ドキドキしていました。
でも、正法寺に、「入山料」(気持ち)をおさめる場所を発見し、ほっ…

少し進んだところに、品川弥二郎夫妻のお墓がありました。
上の地図で、白い色の部分までが、霊山護国神社の墓地となっており、柵で区切られています。品川夫妻のお墓は、霊山護国神社からはお参りすることができません。

品川弥二郎氏といえば、松下村塾の門生であり、高杉晋作氏とともに尊王攘夷のため活動した人物。手を合わせました。

そして、そこからは、もう、大変なことになりました… (笑)





ものすごい斜面を、両手を使って!登っていくと… ついに、目的地に到着しました…!!

続きは後編に・・・