百五十回目の六月五日 | 京一花日記帳

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今日、6月5日は、あの「池田屋事変」が起こった日です。(旧暦)

*池田屋事変 (元治元年(1864年)6月5日)*
新選組が、池田屋で会合中の尊王攘夷派志士を急襲して斬殺・捕縛、その名を全国に知らしめることになった事件。
新選組は、文久3年(1863年)2月ごろから京にて活動、尊攘志士(幕府の敵)の取り締まりを始めていた。
当初は尊攘派の勢力が強く、取り締まりも思うようにできなかった。
しかし、その年の「八月十八日の政変」により、尊攘派は一掃される。
それ以後、新選組の取り締まりは時代の波にのり、尊攘派志士たちに恐れられる存在となっていく。
そんな折、新選組は、四条小橋付近で炭薪商を経営する「枡屋」が尊攘派志士とつながっていることをつきとめ、主人の古高俊太郎氏を捕縛。
その知らせを受けた長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が今後について会合を開くという情報を突き止め、
新選組は捜索を開始。
三条木屋町の旅籠・池田屋に集まる志士らを襲撃した。


この事件で落命した尊攘派志士らは、池田屋近くの「三縁寺」というお寺に運ばれ、供養されました。
毎年6月4日(事件の前日)に、三縁寺では、その落命した志士たちの慰霊のため、「池田屋事変殉難志士祥忌法要」が行われます。
今年初めて、参列することが叶いました。



お寺の裏手に、とてもとても立派な、志士たちのお墓がありました。手を合わせさせていただきました。





少人数での、静かな法要でした。
とても緊張しましたが、ブログを通じてお知り合いになった、和彩彩きーこさまがいらっしゃり、ご一緒させていただきました。本当にお世話になり、ありがとうございました。




ヒヨコ

現在、三縁寺は、左京区の岩倉というエリアにあり、市内中心部からはかなり北の方へ行くことになります。
しかし幕末当時は、池田屋から三条通を東へ数分歩いた場所、三条大橋を渡ったところにありました。
近くなので、そちらへご遺体が運ばれたのでしょうか。

<幕末当時の地図>



<現代の地図>



(引用元:「京都時代MAP」)

もともと三縁寺があった場所は、現在、上の地図のとおり、三条京阪の駅とバスターミナルになっています。



その東側に、真新しい石碑が建てられています!



つい最近!昭和54年まではこの場所に、志士たちのお墓があったのですね。







今日の、三条大橋
~東から西へ~




~西から東へ~
擬宝珠(ぎぼし)に、池田屋事件でついたとされる刀傷が残っています。ここまで乱闘が繰り広げられていたのですね…



今日の、池田屋跡







かき氷~ 今日は肌寒くて、売れていないかも…







幕末の今日、まさにこの場所で起こった、池田屋事変。
新選組の名が天下に轟いた一方で、何の尋問もなく同志が斬られたことにより、長州藩の尊攘派が激昂。
一か月後の、「禁門の変」につながっていきます。

歴史初心者の私が願うのは、ただ、この事件で犠牲となった新選組・尊攘派両方の方々が、
今、心安らかに眠っていらっしゃいますように、ということです…

元治元年の当日は、祇園祭宵々山でした。
今年のその日に、またこの場所を訪れたいと思っています。


*おまけ*
● 古高俊太郎氏が捕縛された「枡屋(古高俊太郎邸)」跡



今は、「志る幸」という料亭になっています。(昭和7年創業)







人生で2度目の「利久辨當(りきゅうべんとう)」2,500円 をいただいてきました。
お汁ものの具は、お好みで、お豆腐から別のものに変更していただけます。(要追加料金)



この日は混んでいたので、奥にあるお座敷近くに通され、待たせていただきました。何だか得した気分…♪

幕末の勤王志士・古高氏に会いに、ぜひ行かれてみてください。