幕末動乱の長州藩を巡る2 旧毛利家本邸 | 京一花日記帳

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2014年5月31日(土)12時20分に、新山口駅にて、現地集合。



ツアーみどころ(1) 毛利家庭園・旧毛利家本邸

長州藩主であった毛利家は、明治維新後、本拠地を、萩から防府に移しました。

そして、新しい住まいとして、明治天皇より「山口県内に本邸を構える承諾」を得て建築したのが、この「毛利家庭園」、そしてそこに建つ「旧毛利家本邸」だということです。

立派な門をくぐって…



目にも鮮やかな、ながーい道を、歩いていきます。



いよいよ、庭園内、重要文化財「旧毛利家本邸」に到着です。




緊張しながら… 中へお邪魔します。



ドーン!! と、毛利家家紋「一文字に三つ星」が、お出迎えしてくださいます。
外はとても暑かったですが、中に入ると、ひんやりと気持ちがよかったです。

こちらのお部屋で、説明をお聞きしました。



毛利家は、 明治維新を実現させた功績を認められ、明治17年(1884年)、国家に偉勲ある者「勲功者」として、華族の最高位である公爵の爵位を授かりました。

本邸を建てるにあたり、旧藩士であった維新の元勲、井上馨(いのうえかおる)氏が、「公爵・毛利家にふさわしい邸宅を」と、建設場所の選定から、携わったそうです。

明治25年(1892年)、この地での建設が決められましたが、日清戦争・日露戦争の影響によって着工が遅れ、大正元年(1912年)9月にようやく建設が開始され、大正5年(1916年)、6年弱の歳月を経て完成しました。(ガイドの方、毛利博物館hp等より)

日本家屋の、きりっとしたたたずまい



さりげなく、家紋




大正天皇や貞明皇后、昭和天皇・香淳皇后も、この寝室に宿泊されたといいます。




この一階の奥は、「毛利家博物館」として、約20,000点もの毛利家伝来の文化財が展示されています。
写真でお見せできないのが残念・・・

たとえば、「三本の矢(三矢の訓)」のもとになった、毛利元就氏の自筆書状「三子教訓状」(1557年)がありました。
(三兄弟が一致協力し、「毛利」の家名を大切にし、長くその存続を図るよう諭した14か条にわたる長文の手紙)
その他、毛利家のお宝がずらり。圧巻でした。 (大きな大きな萩城下地図も、ありました!)

博物館からつながる渡り廊下に、「洗濯場」の説明書きがありました。



この「洗濯場」の建物は、裏庭に独立して建てられており、渡り廊下の窓から見えました。
華族のお屋敷で、生活で使用する部分がほぼ当時のままで現存している(!)ことは極めて珍しく、他に例を見ないそうです。
ちなみに、火熨斗場(ひのしば)というのは、アイロンをかける場所だそうです。

一階にはその他、水回りと、



毛利家当主(公爵)および夫人の、浴室があります。浴槽は大理石製!



大正時代に建てられたものでありながら、給湯施設が完備しており、蛇口からお湯が出てくるようになっていたそうです。さすが公爵・毛利家本邸です。

そして、浴室のお隣のお部屋には・・・



公爵専用の、散髪用の椅子が置かれていました。足を置く場所には英字が書かれており、きっと当時はすごくハイカラなものやったのやろうと思いました。




お二階





広い広い庭園のこの眺めを楽しみながら、毛利公爵もここで、ゆるりと過ごされていたのでしょうか。
黄砂が多い日でしたが、もし黄砂がなければ、遠く海を臨むこともできるそうです。



お部屋の電灯が、どのお部屋で見るものも本当にお洒落で、可愛らしいものでした。



「当時の最高レベルの技術を駆使して造られた邸宅」だけあって、邸内の電力はすべて自家発電でまかなわれ、各部屋部屋はインターホンで結ばれる(!)など、
伝統的な和風建築の中に、最新設備が施されていたということです。

また、別のお部屋には、室内にお水の設備が。



お庭とは別の方角には、



このような景色が広がっておりました。
もう・・・ 帰りたくない・・・
私のような一般市民が、このように毛利のお殿様のお屋敷にお邪魔できるとは…いい時代に生まれました。


次は、庭園を歩きます。