第8回 山南忌 | 京一花日記帳

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仕事でばたばたしている間に、いつの間にか、ここ京都にも春が。




昨日の夜の、祇園白川の梅… 真っ暗(笑)
夜空を仰ぐと、久しぶりに見る、清水寺からの青い慈悲の光です。

昨日から、「東山花灯路」が始まっているんですね。


さて、先週3月9日(日)、「第8回 山南忌」に参加させていただきました。

山南忌、とは、幕末、旧前川邸で切腹した新選組総長・山南敬助氏を偲ぶ会です。




<山南敬助 (1833年-1865年)>

仙台藩の出身。やがて江戸へ出て、千葉周作氏のもとで北辰一刀流を学び、免許皆伝となる。

ある時、近藤勇氏と出会い、その人柄に惹かれ慕うようになる。

近藤氏の試衛館の門人と共に、1863年(文久3年)上洛し、壬生浪士組を結成。

土方歳三氏、新見錦氏と並んで副長となる。

同年、大坂の呉服商・岩城升屋に押し入った不逞浪士を取り締まる際、左腕を深く負傷。

その後、八月十八日の政変での警備、芹沢派の粛清に関わる。壬生浪士組が新選組となってからは、総長として隊を支えた。

しかし、翌年1864年(元治元年)夏の池田屋事件、禁門の変では、表舞台から消える。

腕の怪我によるものか、勤王の思いが強い自分と、佐幕色を強めていく隊との溝を感じたためか。

同年秋、伊東甲子太郎氏が参謀として新選組に入隊。

また同じ頃、新選組は壬生の屯所が手狭になったことから、西本願寺に屯所を移転を決定。勤王派の寺に移転することに山南氏は強く反対したが、聞き入れられなかった。

その翌年1865年(元治2年)2月、「江戸へ行く」と書き残し隊を脱走。近藤・土方氏は沖田総司氏にあとを追わせ、大津にて捕縛、屯所へ連れ帰らせる。

2月23日、隊規により切腹… それは見事な様であったという。本人の希望で、沖田氏が介錯。享年33歳。


 山南氏は、学識があるだけでなく、周囲からの人望も厚い人でした。

 試衛館時代からの友人であった新選組幹部、とくに土方副長は、心を鬼にして山南氏の切腹を決めたといいます。心中は、どれほどの苦しみであったのでしょうか。そして、山南氏の心中とは。


 惜しまれながら切腹をされた、山南氏を偲ぶこの「山南忌」は、まだ8回目です。

 2004年、NHK大河「新選組!」で知名度が大幅に上がったことなどを受け、2007年に、この記念行事が始まったのだそうです。

※参加には、事前に、葉書での申し込みが必要です。

山南忌を訪れる方は、まず、壬生・光縁寺にある、墓所参拝をします。
次に、光縁寺から徒歩数分の、旧前川邸にて、ご焼香です。




普段は非公開の、隊士が屯所とした屋敷内に上がり、山南氏が切腹をしたまさにその部屋で、ご焼香をあげることが許されます。

外から何度も見ている旧前川邸の中を、初めて隊士の目線で歩かせていただき、とても複雑な気持ちになりました。


そして、午後からは、壬生寺境内にある壬生寺会館にて、記念式典が行われます。




記念式典の中で私が最も感動したのは、

「司太夫さんの奉納舞」(ゆったりと雅に舞う司太夫さんに、時間がとまったような感覚になり、見入ってしまいました)

そして、次第にはなかった「栗塚旭さんのご挨拶」(新選組血風録でファンになって以来、一度お目にかかりたいと願っていたので大感動でした)


またこの日、記念式典まで時間があったので、 壬生塚の近藤さんへご挨拶に伺いました。






近藤さん、今年もまた、春がやってきますね。




山南さんを慕う方々が時代を問わず皆、この日、この場に集まり、再会を楽しんでいるかのような、すっきりとした快晴と、春めいた暖かい日でした。