西本願寺と門前町(後篇) | 京一花日記帳

京一花日記帳

*京都や幕末、日々のことを綴っています。ご訪問ありがとうございます*

こんにちは。

京都の日曜日は、雨も上がってすっきり晴れています!


萩から戻ってのこの一週間は、珍しく忙しく…

基本、家にいるのが大好きな私なので、ちょっと息切れ中です。

でも、とっても充実した一週間でもありました!


木曜日は、ブログで仲良くさせてもらっているTこさんと、池田屋襲撃!歴史話(と、薄桜鬼 笑)で盛り上がりました。

Tこさん、お誘いありがとうございます、またの上洛を楽しみにしていますo(〃^▽^〃)o

ヒヨコ


さて、遅くなりましたが、「西本願寺と門前町」後篇です。

前篇はこちら→ 「西本願寺と門前町」前篇


注)今回も長いので、暇で仕方がないときにでもお読みいただけたら嬉しいです。


去る2013年12月23日、運命の「京北マルシェ」当日、 マルシェを楽しんでいたときのことです。

マルシェ会場のある油小路通を、北に向かって歩いていくと… 




「美好園茶舗」




引き戸の上に、「本願寺御用達」の文字。こ、これは・・・! 入るしかありません。


おそるおそる引き戸を開けると、お店のおじさまが奥からお出迎えくださり、なんとお茶と、アイスクリームも出してきてくださいました。(゚ーÅ)




宇治抹茶アイスクリーム♡




ものすごく美味しかったです!

お茶とアイスクリームがあまりにおいしかったので、おじさまお勧めのこちらのお茶を購入しました。

煎茶 「童仙房」




*煎茶「童仙房」*

京都府の最南部南山城村の高台に「童仙房」という所があります。その昔、平家の落武者部落とも言われており、又、良質煎茶の産地として早くから知られておりました。
美好園の煎茶「童仙房」は産地名をそのままつけた全くの直送品です。仙人の住むような幽玄の地でつくられた煎茶「童仙房」のまろやかな之も言われぬ風味は必ず皆様にご満足して頂けるものと確信しております。(hpより)


なんともまろやかで、安らぐ香りとお味のお茶です。

この「美好園茶舗」は、1872年(明治5年)創業以来、本願寺御用達の御茶を務めてきた老舗だそうです。

お茶室で茶道体験等もできるそうですので(2名以上、前日までに要予約)、本願寺参拝の帰りに一息、いかがでしょうか。


そうしておじさまとの会話の中で、すぐ近くに天満屋があると知ることになるのでした。


 


<今回の巡察範囲> (見えづらく申し訳ありません)





この、(西)本願寺の正面、堀川通をはさんで広がる町が、「本願寺門前町」と理解していますが、正しいでしょうか。


この「本願寺門前町」の歴史について、本願寺の境内に案内がありました。それによると、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


●京都に数多くある「門前町」の中でも、この本願寺門前町は少し性格が違う。


どういうことかというと、


●元々は「門前」ではなく、「寺内」町(境内地内に形成された町)であった。


…ええっ!!境内に町があったのですか!


●1478年(文明10年)に、本願寺が山城(現在の京都市山科区)に移った際に、

 その広大な境内地内に町ができた(寺内町)。それが本願寺門前町の始まりとされている。


●その後、石山(現在の大阪城周辺)、鷺森(さぎのもり、和歌山市鷺森)、貝塚(大阪府貝塚市)、

 天満(大阪市)を経て、豊臣秀吉公の命により、現在の場所に移転してきた。


●現在の地を選んだのは、応仁の乱で荒れ果てていた京都の町の復興のためだったと言われている。

 太閤様の狙い通り、周辺地域は寺内町として繁栄した。


そうだったのですね。ところで、寺内町が門前町となったのはなぜ?


●1872年(明治4年)の「上地令」により、

 寺社領のうち、塀で囲まれた地以外の土地はすべて取り上げられることとなった。


→約400年続いた「寺内町」は、本願寺の境内地ではなくなり、他の他社同様の「門前町」として、

 現在に続いている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


なるほど…、もともとは境内にあった「寺内町」だったのですね…。

それゆえに、お寺との結びつきも、他の門前町に比べてより密なのでしょうね。

ヒヨコ


さて、油小路通を南に下っていくと、




現在は車通りの激しい大通り、「七条通」にぶつかります。

(地図上、赤い☆印の地点。写真は南に向いて撮っています。右が西、左が東)

ここが、「油小路の変(油小路事件)」で、新選組による御陵衛士静粛の現場となった場所だそうです。


*油小路の変*

新選組が伊東甲子太郎氏を暗殺・その遺体を引き取りに来た御陵衛士を静粛した事件。

伊東甲子太郎氏は、池田屋事件と同年の1864年(元治元年)、北辰一刀流の同門・新選組八番組組長藤堂平助氏の仲介で、上洛し新選組に入隊。

しかし、新選組が佐幕色を強めていく中、勤王を唱える伊東氏との溝が大きくなっていく。


※「勤王」とは、尊王よりさらに進んで、「天皇に勤めること」、つまり「天皇親権」を目指す考えを言い、

武士が政治を行う幕府を支持する「佐幕」派とは相反するものです。


1867年1月(慶応2年12月)の孝明天皇崩御を受け、伊東氏は、泉涌寺塔頭・戒光寺の堪然長老の仲介によって、朝廷より孝明天皇の御陵を警備する「禁裏御陵衛士」を拝命。

薩摩・長州藩の動向を探るという大義も加え、自分に賛同する同志14名を引き抜いて新選組を離脱。

五条橋近くの長円寺から東山高台寺の月真院に本拠地を移し、「高台寺党」として活動した。

活動内容は、一和同心(日本国が心をひとつにして和する)・開国による富国強兵策・公儀による朝廷政治を目指すもので、時代の先を読んでいた。また、皆で英語も学んでいたのだそう。

しかし、1867年12月13日(慶応3年11月18日)、新選組局長・近藤勇氏は、伊東氏を七条の近藤妾宅に招いて酒を飲ませ、その帰り道を隊士の大石鍬次郎氏らに襲わせ、暗殺。伊東氏享年32歳。

さらに新選組はその遺体を油小路七条辻(上の写真の場所)に放置し、周囲に隠れ、

遺体を引き取りにきた御陵衛士を待ち伏せ、襲撃。

これにより新選組結盟以来の元同志であった藤堂平助氏のほかに、服部武雄氏・毛内有之助氏の3名が討死。

※藤堂氏については、局長が助けるよう指示していたが、それを知らない新選組隊士が斬った。


新選組がなぜ伊東氏暗殺・御陵衛士静粛を行ったかといえば、 新選組から間者として御陵衛士に入っていた斎藤一氏より、 「伊東氏が新選組局長近藤氏を暗殺しようとしている」との情報が入ったから、とされていましたが、

・伊東氏が近藤勇暗殺を計画していたことを示す記録はなく、そもそも計画していなかった。

・伊東氏暗殺の本当の理由は、伊東氏が長州藩を擁護する活動を行っていたから。

という説もあるようです。


伊東氏は、近藤妾宅からの帰り道、酔って歩いているところを、通り沿いの板囲いの裏に潜む大石鍬次郎氏に、板の間から出された槍で喉を突かれたのだそうです…

お酒で酔わせたのは、北辰一刀流の使い手であった彼を警戒したためだそうです。


伊東氏が襲われた現場




深手を負いながらも、「止まれ」標識を左に曲がるとある「本光寺」門前まで辿り着き、「奸賊(かんぞく)ばら!」(=卑怯な逆賊らめ!)と叫び、絶命したそうです…


本光寺 門前




新選組は、ここから伊東氏の遺体を先ほどの七条通まで運び、仲間が来るのを待ち伏せたのですね。






この日、お寺の方がいらっしゃって、特別に中に入れていただけました。




中には、伊東氏の遭難を供養する碑が建っていました。

手を合わせさせていただきました。志半ばで、さぞ無念であったことと思います。

 

なお、伊東氏らの遺体はしばらく(数日間とも言われます…)放置されたのち、新選組の菩提寺・光縁寺(壬生)に埋葬されます。

その後、朝廷の沙汰により、生き残りの御陵衛士によって、孝明天皇の御陵のある泉涌寺塔頭戒光寺へ改葬されました。

その葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、その費用は新政府参与の役所が出したと言われています。
去年の11月に、戒光寺の御陵衛士墓所へ参りましたので、ご興味があればご覧ください。

戒光寺・禁裏御陵衛士墓所


※ちなみに、この本光寺の近くに、新選組十番組組長・原田左之助氏の住宅跡があります。(地図参照)

今回は行けませんでしたので、また次の機会に訪ねてみたいです。



本願寺と門前町、そしてその周辺で起こった幕末の事件を辿ってみました。

長々と失礼いたしました。