高瀬川一之舟入と角倉了以邸跡 | 京一花日記帳

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こんばんは。


今日は、曇り空のなか、二条大橋周辺を巡察してきました。


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二条大橋から、北へ鴨川をのぞみます。この景色、大好きです。


さて、この二条大橋を西へ渡ると、

高瀬川の起点である「高瀬川一之舟入(たかせがわいちのふないり)」が姿をあらわします。


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京都は、古代より政治と経済の中心地でしたが、内陸であるがために物流の便が悪いという課題がありました。

そこで、1614年頃(江戸時代初期)、
この近辺に邸宅を構えた豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)氏が、息子さんとともに、 ここ二条を起点として、鴨川から水をひき、鴨川と並行して伏見までをつなぐ物流用の運河を開きました。


それが、現在の高瀬川です。


「舟入」というのは、船の荷物の積み下ろしや、船の方向転換を行う場所です。


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この奥がひらけていて、舟入となっています。


当時は奥行133.5メートル、幅が16メートルもあって、三方から荷物の積み降ろしができるようになっていたとか!

(現在史蹟として保存されているのは、奥行が11メートル程、幅が2.3メートル程。)

舟運が廃止される1920年まで、二条から四条の間に、ここを含めて計9ヵ所もの舟入があって、

最盛期には、100艘以上の船が上下して行きかい、大坂と物流をつないだそうですよ!


きっとこの界隈、当時はものすごく賑やかやったんでしょうね。



ちなみに、この運河は水深が浅かったので、写真にある、底が平らな船「高瀬船」が使われました。

それが「高瀬川」の名の由来になったそうです。


角倉父子がつくったこの運河によって、京都と大坂が直接水運で結ばれて、京都の経済が大きく発展したんですね。心から、感謝申し上げます。


それにしても、一個人が、こんなものをつくってしまうとは…。当時の豪商って、本当にすごかったんですね。


その角倉氏の邸宅跡は、この一之舟入のすぐ北側にありました。


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道を挟んで向かい側には別邸跡が。さすが豪商。


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現在は、がんこ 高瀬川二条苑として営業しており、高瀬川の源流、そして庭苑と共に、お食事を楽しめるそうです。


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こちらの別邸、角倉氏所有の後には、あの山縣有朋氏の別荘にもなったのですね!


そして、この一之舟入の南側には、趣のあるお食事処が並んでいました。


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きっと、舟入を眺めながら、お食事を楽しめるんでしょうね(*´Д`)=з


こちらから、舟入をちょっと覗けましたよ。


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明治期のこの界隈の古写真が…!


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この柵の向こう側が、一之舟入です。



高瀬川のこと、角倉氏のことを、よく勉強できた一日でしたヒヨコ