タケさんのブログ クラシック時々ポピュラー -6ページ目

タケさんのブログ クラシック時々ポピュラー

クラシックを中心に、ポピュラーや民族音楽なども(少し)紹介してます。
レアなものや変わったものも多いので、良ければ見てやってください。

 1992年よりビッグコミックスピリッツで連載され、現在は、増刊号に掲載されている美術界を舞台とした漫画です。

 主人公、藤田玲司は、メトロポリタン美術館のキュレーターだった経歴を持ちながら、贋作専門の美術商を営んでいるんですが、それは表向きで、裏社会とのつながりもある人物、という設定ですが、アートに殉じるようなひたむきさも持ち、アートを理解しない人間には手厳しいなど、清濁飲み込んだような人物です。

 それと、アラブの王族の娘でありながら、隣国の侵略により日本に流れ着いた助手のサラとともに、ギャラリーを運営しています(実は、莫大な遺産を持つ金持ち)。

 アートに関する歴史的なことや、政治的なこと、人間関係のトラブルなど、多彩なストーリーで、しかも、アートに関する深い知識と洞察力も魅力です。

 実は、このブログのスタイルも、影響を受けていて、美術と音楽の違いはあれど、設定や展開は、お手本にしてます。 前に書いた「音楽探偵 松原万寿堂」も、これから発想したものです。

 今回は、5編あり、ちょっとパワーダウンしたかな?と、思いつつも、広範な知識に基づくストーリーの魅力は健在で、大いに楽しめました。 ちょっとへんこなおじさんや、中東系の美女が好きなら、おススメです(どういうすすめ方や(笑)) もちろん、アート好きは必見です。

 

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 Jean Francisque-Étienne Martinon(1910-1976)没後50年です。

 20世紀フランスを代表する指揮者で、特に、フランス国立管弦楽団との数々の名演で有名です。

 

 リヨンで生まれ、当地で教育を受けた後、パリ音楽院に進学。 アルベール・ブーシェリにヴァイオリンを、ルーセルに作曲、ミュンシュとデゾルミエールに指揮法を師事。 第二次世界大戦中は、フランス軍に従軍したが、その間作曲も行った。 

 戦後、パリ音楽院管弦楽団の指揮者に就任、1946年からは、ボルドー=アキテーヌ管弦楽団の指揮者に就任。 その後、数々のオーケストラの指揮者となり、代表的なものでも、ラムルー管弦楽団(1967-61)、シカゴ交響楽団(1963-69)、フランス国立管弦楽団(1968-74)があり、特に、フランス国立管弦楽団とは、作曲家としての明晰な作品解釈で、特に、フランス近代の作品で、今でも貴重な録音を残す。

 1974年3月7日、骨がんにより死去。

 

 作曲家としても、いくつもの作品を残していますが、やはり、指揮者として有名で、フランス近代やロシア物、また、マーラーなども録音を残していて、フランス人でありながら、ドイツ=オーストリア系の構築力もあったと言われています。 特に、フランス近代のレアな作曲家、作品を録音してくれていたことは、賞賛に値します。 その、レベルの高い音楽性は、今でも、その作品の、1、2を争う名演です。

 

では、ドビュッシーの「スティーリー風タランテラ」と、めずらしいオネゲルの「夏の牧歌」を。

 

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 ダンツィは、木管五重奏曲を9曲、ピアノと管楽器のための五重奏曲を3曲残していますが、この作品56が最初の作品集です。

 そういうこともあって、1曲ごとに、作曲スタイルが進化していっているのがわかるんです。 正月にUPしたop.56-1では、和声的な動きが多かったですが、ここでは、1つの楽器による分散和音や、より緻密な音の絡みが聴けます。 第1楽章だけでなく、続く楽章も充実してきていて、いよいよ、聴きごたえのあるものになっています。

 

 では、ベルリン・フィルのトップクラスの奏者たちの演奏で。

 

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 今回は、1986年の、ロック系ヒットを2曲です。

 

 まずは、ヨーロッパの「ファイナル・カウントダウン」 スウェーデンのハードロック・バンド、ヨーロッパ最大のヒットで、アメリカでは8位どまりでしたが、25か国で、チャーㇳ1位になり、780万枚を売り上げた曲です。 歌詞は、わりと適当で、金星に向かう宇宙飛行士の話で、最後のカウントダウンが行われるというもの。 この6年前に、同名のSF映画が公開されていたんですが、まったく、関係ありませんでした。

 

  次は、バングルスの「エジプシャン」。 アメリカの女性のみのロック・バンドで、1981年から89年まで活動し、いったん解散したんですが、1999年から再結成して活動中。 ロック・ファンには、2位となった「マニック・マンデー」のほうが知られているようですが、唯一の全米No.1ヒットがこれ。 メンバー作曲ではなく、外部の作曲家からの提供で、フェリーに乗っている人が、揺れたときにした歩き方が元になってるんだとか。 なので、歌詞も、ちょっとおバカなコミック・ソングっぽいものになってます。

  これには、アカペラ・ヴァージョンがあって、個人的には、こっちのほうが、好きだったりします。

 

 

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※アニヴァーサリー作曲家シリーズ、今年の最後です。

 Carl Ruggles(1876-1971)生誕150年です。

 

 アメリカはマサチューセッツ州マリオン生まれ。 生まれつき音楽好きで、6歳の時、葉巻の箱からヴァイオリンを自作し弾き始める。 また、灯台守から、1/4サイズのヴァイオリンをもらい、耳コピで弾きはじめる。 その演奏は、かなり評判だったらしい。 音楽はほぼ独学だったが、1992年には、YMCAのオーケストラの指揮者に就任している。 ハーバード大学に入学するが、その時に、ジョン・ノールズ・ペインに作曲を師事していた。 1899年に、初めて自作が出版される。 しかし、収入は安定せず、アルバイトを掛け持ちしながら、ヴァイオリンや音楽理論を教えることもしていた。 

 1906年、結婚を機に、ミネソタ州ウィノナに移住し、マール・ドマー音楽学校でヴァイオリンを教え、ソリストとしても活動、やがて、ウィノナ交響楽団の指揮者となる。 1912年には、ニューヨークに移り、作曲の教師をしながら自作の作曲を進める。 1938年まで、そういう生活を続けた後、マイアミに移住、マイアミ大学で作曲を教えることを1943年まで続ける。 その後は、バーモント州のワンルームスクールハウス(複数学年の生徒を1人で教える小学校のようなもの)での教職に就き、絵を描くようになり、そちらのほうで有名になっていく。 晩年まで、こういった生活を続け、1971年10月24日バーモント州ベニントンにて死去。

 亡くなった時のニュースには、作曲家と書かれていたので、前衛作曲家として認知されていたのは間違いありません。 チャールズ・アイヴズ、エドガー・ヴァレーズと親しかったこともあり、十二音技法ではない無調による作曲スタイルでした。 「不協和対位法」と言われる独特のスタイルで、寡作ながら、20世紀音楽史に名を残しています。

 

 

いちおう有名な、「Toys」「Sun-Treader」を。

 

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 Bruno Walter(1876ー1962)生誕150年です。

 20世紀半ばまでの、巨匠主義を代表する指揮者です。

 

 ベルリンに生まれる。 母親が、かなりうまいピアニストだったため、ワルターもピアノに親しみ、急速に腕を上げていき、13歳の時には、ベルリン・フィルのポピュラー・コンサートに出演し、イグナツ・モシェレスのピアノ協奏曲を演奏した。 ベルリンのシュテルン音楽院に入学、卒業後はピアニストとして活動するが、指揮者になることを決意し、ケルン市立劇場でデビューする。

 1896年には、ハンブルク歌劇場に移り、そこにいた先輩のグスタフ・マーラーと出会い、親交を深めていった。 たぶん、1897年ごろ、ウィーンに転任するマーラーと共にウィーンに移住し、ウィーン音楽院で教鞭をとる。 1901年には、マーラーの招聘で、ウィーン国立歌劇場副指揮者となる。 その後は、ミュンヘン宮廷歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督、楽長を歴任、人気指揮者として、欧米各地のオーケストラにも、客演するようになる。

 1933年、ナチス政権ができると、迫害を受けるようになり、ウィーン~フランス~スイスと移住するが、戦禍が激しくなると、1939年9月には、アメリカのビバリーヒルズに移住。 アメリカなどで客演し、戦後は、ヨーロッパでも公演を行うが、ほぼ決まった地位にはつかなかった。 1957年には、心臓発作に見舞われ休養、それからは、数回の客演以外は、指揮活動を控え、1960年には引退。

 ただし、アメリカのCBSレーベルからのたっての願いで、臨時編成のコロンビア交響楽団を指揮して、数々の録音を残す。

 1962年2月17日、ビバリーヒルズの自宅にて没。

 指揮者としては、柔のタイプで、ウィーン・フィルでのリハーサルでも、「どうして美しい音を出してくれないのですか?」と問いかけたりしたらしい。 ウィー・フィルの団員は、「そんなにお願いされると、美しい音を出さざるを得ない。」と言ったとか。

 モーツァルトと直伝のマーラーが、重要なレパートリーと言われますが、古典派やロマン派のレパートリーは、ベテランのクラシック音楽ファンからは崇拝されるぐらい人気があります。 ただ、今の感覚からすると、19世紀中ごろから20世紀にかけての、巨匠主義を代表する指揮者というイメージでしょうか? こういうスタイルがあったという感じで、聴いてみればいいのでは?

 

 

 では、モーツァルトの交響曲第40番の、第1楽章と第4楽章です。 ロマンティックな「哀しみのモーツァルト」です。

 

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 Akio Yashiro (1929-1976)没後50年です。

 20世紀日本を代表する作曲家の1人です。

 

 東京に、西洋美術評論家を父に生まれる。 母が音楽に理解があり、嫁入り道具の中にヤマハ製ピアノがあり、父のコレクションとして、クラシックのレコードがあった。 自発的に、ピアノ演奏や作曲をはじめ、10歳のころには、独学でオーケストラ曲や室内楽を作曲していた。 それを見た父親が、音楽関係者に紹介する中で、作曲家、諸井三郎に、14歳までの約3年間師事した。 父と諸井の相談などにより、16歳で、東京音楽学校へ入学、当時、東京音楽学校で教鞭をとっていた橋本國彦には、14歳から師事していた。 戦後、戦争責任を問われた橋本に変わり、池内友次郎、伊福部昭に師事。 1949年卒業。

 1951年に、パリ高等音楽院に、フランス政府給費留学生として入学、黛敏郎も一緒であった。 1956年帰国。 作曲家として活動する中で、1968年、東京藝術大学助教授に就任、1974年には教授となる。 

 1976年、心不全で急逝、作曲活動と教授活動の激務からの過労死とも言われる。

 諸井から、厳格なドイツ風のスタイルと、池内から、近現代のスタイルを吸収したことにより、フランス的ではあるが、完璧主義の作曲スタイルを取るようになり、寡作ではあるが、それぞれが、名作の評価が高い。 長生きしていたら、どんな作風になったか興味深い人ではあります。

 

では、比較的わかりやすい、吹奏楽のための祝典序曲「白銀の祭典」 を。1972年の札幌オリンピックの開会式のために作曲されたものです。

 

 

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 デビュー50周年のフュージョン・バンドです。

 ソウル/ファンクを主体とした聴きやすくグルーヴィーなスタイルで、一世を風靡しましたね。

 

 全員優秀なスタジオ・ミュージシャンで、1975年の、ヴァン・マッコイの「ハッスル」のセッションにメンバーのうち4人が参加したことで、バンドを作ることになり、1976年、アルバム「スタッフ(Stuff)」でデビュー、その時のメンバーは、

 

 ゴードン・エドワーズ(b)

 エリック・ゲイル(g)

 コーネル・デュプリー(g)

 リチャード・ティー(kbd)

 クリストファー・パーカー(ds)

 スティーヴ・ガッド(ds)

 の6人。 それぞれのプロフィールは、紹介していったらキリがないので、調べてみてください(ぉぃ!w)

 みんな、ソロでアルバムを作れるぐらいのメンバーだったので、1980年ごろには、自然消滅しています。 当時の、白人系のフュージョンが、だんだんと理屈っぽくなっていったのに対し、ソウル/ファンクを取り込んだわかりやすくもグルーヴィーなサウンドに、今もファンが多いです。 その後、1986年に、スティーヴ・ガッドが、ほぼ同じメンバーの4人組で、ガッド・ギャングを結成してましたね。

 

 

では、デビュー・アルバムから2曲どうぞ。

 

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 Léon Fedorovich Minkus(1826-1917)生誕200年です。

 19世紀のロシア帝国で活躍したバレエ作曲家です。

 

 モラヴィア(現チェコ)生まれの父とハンガリー出身の母との間に、ウィーンで生まれる。 両親は、ワインの卸商であった。 後に、ダンスホールを備えたレストランも経営しだし、それにより、ミンクスもヴァイオリンのレッスンを受けはじめた。 1938年から42年まで、ウィーン・ムジークフェラインで音楽を学ぶ。 8歳で、ヴァイオリニストとしてリサイタルを開いてデビュー。 1846年には、作曲家として5曲出版し、指揮業にも進出していった。 

 1853年、ロシアのサンクトペテルブルクに移住。 まず、農奴オーケストラ(貴族が所有する農奴に楽器を弾かせた)の指揮者となり、1856年からロシア帝国ボリショイバレエ劇場のコンサートマスター兼主席ヴァイオリニストとなり、1861年までには、音楽監督に昇進した。 1870年には、帝国劇場バレエ作曲家となる。 この頃に代表作が集中して作曲されている。

 1886年には、劇場との契約が満了したこともあり引退。 必要に応じて作曲もしたが、1991年、ウィーンに帰郷する。 いくつか作曲もするが、1917年12月7日、ウィーンのゲンツガッセの自宅にて没。

 作曲スタイルとしては、標準的な19世紀のスタイルですが、バレエに特化していて、今でも、バレエ公演で良く取り上げられます。 

 

では、代表作の、「ラ・バヤデール(抜粋)」を。

 

 

 

 

 

 

 Rudolf Kempe(1910-1976)没後50年です。

 どちらかと言うと渋好みのクラシック音楽ファンに人気だったドイツ出身の指揮者です。

 ドレスデン近郊の、ニーダーボイリッツに宿屋の息子として生まれる。 ドレスデン音楽大学でオーボエを学び、1929年、ドルトムント歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席オーボエとなる。 1935年から指揮者に転向、ケムニッツ歌劇場を皮切りに、ヴァイマール国立、ドレスデン国立歌劇場を歴任し、1952年から、ミュンヘン国立歌劇場の音楽監督に就任。 1954年には、アメリカのメトロポリタン歌劇場にも指揮者デビューしている。

 1961年~75年、ロンドンのロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。 

 1965年~72年、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団首席指揮者。

 1967年~76年、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者。

 1975年~76年、BBC交響楽団首席指揮者。

 と、大活躍するが、1976年、肝臓がんにより、チューリッヒで急逝。

 

 バッハから近代までのレパートリーを誇りますが、19世紀以降の作品の評価が高いようです。 

 

 

 では、ワーグナーで「ローエングリン」の管弦楽曲を。 1960年から4年連続で、「ニーベルングの指環」全曲をバイロイトで振ったくらい得意のレパートリーです。

 

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