ダリウス・ミヨー | タケさんのブログ クラシック時々ポピュラー&グルメ、観光

タケさんのブログ クラシック時々ポピュラー&グルメ、観光

クラシックを中心に、ポピュラーや民族音楽なども(少し)紹介してます。
レアなものや変わったものも多いので、良ければ見てやってください。

 Darius Milhaud(1892-1974)没後50年です。

 20世紀フランスの代表的グループ「フランス六人組」の中でも中心的な作曲家です。

 南フランスは、プロヴァンス地方マルセイユに生まれる。 父は、アーモンド取引で財を成した人であった。 両親とも音楽好きで、そういう環境から、3歳でピアノをはじめ、耳にした曲をすぐ弾いて見せるなどの才能を見せた。 7歳で地元の音楽家レオ・ブルギエにヴァイオリンを習う。 才能を認められ、1902年、10歳にして、ブルギエ四重奏団の第2ヴァイオリンとして活動。 連日4時間の練習を、15歳まで続ける。 この頃に、ドビュッシーの弦楽四重奏曲ト短調に出会い、のめりこみ、「ペレアスとメリザンド」のスコアを購入するまでになる。

 1909年、パリ音楽院に入学、ルルーに和声、ジェダルジュに対位法、デュカに管弦楽法、ヴィドールの作曲を師事。 ここで、ルルーに、「なぜ君は、すでに独自のスタイルを持っているのに、私に和声を習うんだい?」と、言われる。 在学中に、オネゲル、タイユフェール、オーリックや、詩人ポール・クローデルと出会う。

 1917年、ポール・クローデルがブラジル大使にに任命されると秘書として同行、ブラジルの音楽と出会う。 

 アメリカを経由して1919年、フランスに帰国、1920年には、新聞の記事をきっかけに、フランス六人組の1人として知られるようになる。

 1922年、プーランクとともにオーストリアのアルマ・マーラー宅を訪問。 この時、シェーンベルク、ウェーベルンと会う。

 1940年、戦禍を避け、アメリカに移住、ミルス・カレッジで、作曲を教えるようになる。 戦後は、フランスに帰国し、ビュッセルの後任として、パリ音楽院の教授となるが、ミルス・カレッジでも1971年まで教えていて、1年おきに、フランスとアメリカを行き来する生活を送る。

 1971年、ミルス・カレッジを辞し、スイスのジュネーヴに移住、まだまだ、創作意欲は衰えなかったが、1974年6月22日、同地で没。

 ミヨーといえば、400曲以上作曲した多作家であるとともに、多調(複調)性の作曲家として知られています。 一度に2つ以上の調性を合わせることで、自分自身のスタイルを作り上げたのです。 基本、カラリと明るい作風なので、意外といけますよ(え?w

 

 

とりあえず、聴いてみてください^^b

 

にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村