本当に小説は読まれているのか? | 世は不可解なりⅡ

世は不可解なりⅡ

おかしなことばかりの世の中での独り言

世の高等遊民が持っている彼ら自身の憧れを、私は以下のように
把握してきた。


 明治後半から昭和30年代    : 小説家

 戦後から現代   : 俳優、役者、芸能人
 高度成長期から現代    : ミュージシャン
 平成から現代   : お笑い芸能人


ずっと、ミュージシャン志望に押されていた(と思われる)、小説家
志望が、ここ最近、盛り返してきた(と思う)。
多くの人の間で、小説執筆が盛んになったようだ。


その背景として、携帯電話のメールにより、文章化という行為が
復権したことと、パソコンのホームページ開設・ブログ開設が、
誰でも直ぐ発表の場が持てることと分析されている。
小説は、天才秀才は別として、人生経験を積んだ、年輪を重ねた
人から出るのもと思いがちだが、そんなことはない。
ある種、技術であり、慣れであるのだろう。
その象徴が、2003年下半期 (第130回) 芥川賞の、綿矢りさ 『蹴
りたい背中』 であり、金原ひとみ 『蛇にピアス』 である。


ところで、私が一つ疑問に思うのが、本当に小説は読まれている
のだろうか、ということだ。

何も、小説を読まないで小説を書くことがおかしいなどとぬかす
つもりはないし、私自身熱心な小説読みではない。
新刊本屋へも殆ど行かない人間である。


当然の事ながら、ブログで目にする小説は、面白く思うものもある
が、つまらないものも多い。
もっとも、随筆?ですら、つまらないものが多いのだから、小説と
なればなおのことだ。


しかし、小説を書こうという志があるだけ、つまらない日記に比べ
れば、結構だと思う。
そして、そのような行為そのものが素晴らしいとも言える。


さて、これら多くの職業小説家予備軍の教養 (という言い方をした
ら失礼であるが、その寄って立つところ) は何であろうか。


ここで、1987年、鷺沢萌氏が、「川べりの道」 で第64回文學界新人
賞を受賞した時のことを思い出す。
この作品は、十八歳の時に執筆したというのだが、批評として、「マ
ンガの描写を読んでいるようだ」 というものがあったのだ。
その批評が私には大変印象深かった。
既に世の中は、小説以外に、映画・テレビ・マンガと映像の満ちあふ
れた時代に変わっていたのだ。
このような批評が出ても、当然といえば当然である。


はたして、小説が 「マンガを読んでいるようだ」 と言われることが、
良いのかどうか。


が、マンガに出来て小説に出来ないことがあるだろう。
同様に、映画に出来て小説に出来ないことがある。
例えば、映画 『去年マリエンバートで』。

この、見る者を混乱に陥れる圧倒的な力には驚嘆するばかりだ。
これは映画でこそ出来得るものであり、それだからこそ映画には

映画の価値がある。

一方、映画に出来ずに、小説にのみ出来ることもある。
当然である。
それを目指して欲しい。


そのために、小説志望の人々にもっと小説を読めばイイのにと思う。
だからお前は古いと言われそうだが、小説志望は、小説をもっとより
どころとすべきだし、もっと読まれるべきだ。