みなさんこんにちは。前回からの続きです。

「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。
来年(2025年)で、京阪特急の誕生から75年。本題の「8000系」について取り上げる前に、その歴史について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示や、手元の参考文献などにも触れながら項を進めています。

さて、1971(昭和46)年に5代目京阪特急として華々しくデビューし、全車冷房やカラーテレビ、豪華な座席を備えるなど、居住性の高さで人気を博したのが「3000系(初代)」。
昭和40年代後半から平成に至るまでの間、京阪電車のまさにフラッグシップとして大活躍を果たした、というところまで前回記事では触れました。出典①。
1989(平成元)年10月には「鴨東線(おうとうせん)」が三条から出町柳まで延伸開業。
大阪市内中心部から、自然豊かで名所名刹の多い洛北や、比叡山方面へのアクセスが格段に向上するという、京阪電車110年の歴史の中でも特筆される出来事でした。出典②。
しかしながら、この「鴨東線開業」が「3000系(初代)」の運命を大きく変えることになりました。以下、フリー百科事典「#京阪3000系電車(初代)」から拾ってみます。1993(平成5)年7月、京橋にて。中2のブログ主撮影。
1989年(平成元年)10月の鴨東線開業に伴い、18年ぶりの新型特急車となる8000系が導入されることとなった。8000系は7両1編成と、本系列(3000系初代)への中間増結車5両の計12両が投入され、特急車は7両編成に統一された。(中略)
1993(平成5)年1月、三条にて。ブログ主撮影。
一方、8000系の人気と鴨東線開業後の利用増は予想を上回るもので、特急車を全て8000系に置き換える方針に変更され、3扉化を考慮した設計の車体ではなかったことから、本系列の廃車が始まった。1993(平成5)年1月、出町柳にて。ブログ主撮影。
「鴨東線開業」を期にデビューしたのが、今回の特別展で取り上げられている「8000系」なのでした。数えて京阪特急6代目の専用車両です。
ついに「8000系」がここで登場する訳ですが、デビューは「鴨東線開業」と同じタイミング。ところが、ここで思わぬ事態が起こります。以下「同#京阪8000系電車」より。
1989年(平成元年)10月の鴨東線開業に伴う特急車の所要本数増加への対応と、特急の7両編成への統一を目的に、7両編成1本と中間車5両が製造された。
運用が開始されると、特急停車駅で8000系に乗車するために待つ乗客が非常に多くなった他、3000系に組み込まれた8000系中間車に乗客が集中した。
また、鴨東線開業に伴う特急の利用客増加は予想以上であり、特急を7両編成に統一したにもかかわらず混雑する場面が多く、1989年12月には第1編成の補助いすに手すりが増設された。
そして、特急を8000系に統一することとなり、1993年(平成5年)には7両編成10本(70両)となった。主電動機や駆動装置などは、本系列と8000系で共通としたことから、改修のうえ新造の8000系に転用された。出典②。
そういったことで、京阪特急フラッグシップの座は「3000系(初代)」から「8000系」へと移り変わることになり、前者は廃車、もしくは他社への移籍が進められることになりました。
1991(平成5)年1月、出町柳にて。小6のブログ主撮影。ぶれぶれですいませんm(_ _)m
電話室設置済の3500型については、未改造車との組み替えが実施され、3500型と3000型の各10両が富山地方鉄道および大井川鉄道(現・大井川鐵道)に譲渡された。
「富山地方鉄道」に譲渡された「3000系(初代)」。「10030形」と改番の上、大改造の後に現在でも活躍しています。電鉄富山にて。1994(平成6)年8月、高校1年生の夏休みにブログ主撮影。
この富山へ譲渡の経緯については、こちらの記事でも触れました。よろしければどうぞ↑
さて、ウィキの記事にもありますが、あたらしくデビューした「8000系」。
眺望を楽しめるワイドな窓にカード式公衆電話、明るい雰囲気の車内と「3000系(初代)」より進化した豪華な設備に人気が集中します。

デビュー当時(1989年)には1編成しか走っていなかった「8000系」に乗りたいために、先行の「3000系(初代)」をわざと見逃す、また、6両編成だった「3000系(初代)」を7両編成化するために、1両だけ増結された「8000系」に乗客が集中する、ということが起こりました。

くだんの「3000系(初代)」6両編成を、7両編成にするため増結された「8000系」。形の違いですぐわかります(後ろから3両目)。出典②。
しかし、この現象はわたしもリアルタイムで幾度か目にしましたが、とかく「8000系」はすごい人気でした。自由に乗り鉄出来る中学生くらいになった頃のかくいうわたしも、中間車で良いからと、やはり乗りたくて、でした(汗)
1993(平成5)年7月、三条にて。ブログ主撮影。この頃には先頭車両の幌は外されました。
ところで、ウィキの記事をひもといていますとこの「3000系(初代)」と「8000系」とが交錯するタイミングについて、なんともデジャヴとも思えるくだりに出会いました。出典④。
「3000系(初代)」の先代に当たる「同#京阪1900系電車」の項より。
本系列(3000系初代)と1900系との接客設備の差は冷房機器の有無などからも明らかであり、特に夏は涼しい本系列の運用を待って先行の1900系特急を見送る乗客が急増した。
このため、京阪は当初の補充のみの車両増備計画を改め、特急車をすべて新造の本系列に置き換えるとともに既存の1900系を一般車に格下げ、これらを老朽化が進行していた旧型車の置き換えに充てる方針に転換した。出典③。
「3000系(初代)」がデビューしたのは1971(昭和46)年と触れましたが、先代が登場した当時にも同じような現象が起きていたことが、記事からはわかります。京橋にて。
わたしは生まれてもいませんのでなんともですが、時代が変わっても、新型車両への乗客の関心というものは、変わらないものなのだなと感じた次第です。歴史は繰り返す、ですね。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「私鉄の車両15 京阪」飯島巖・青野邦明・諸河久共著 保育社刊 昭和61年4月発行)
(出典②「京阪電気鉄道株式会社 70周年記念誌 過去が咲いている今 京阪この十年」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1990年7月発行)
(出典③「私鉄ガイドブック・シリーズ 第5巻 阪急・京阪・阪神」慶應義塾大学鉄道研究会編 誠文堂新光社刊 昭和42年12月発行)
(出典④「京阪七十年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1980年4月発行)