大阪モノレール 延伸への道!その90〜「万博鉄道まつり2024」で気になる疑問を社員さんに質問編 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



先週末、「万博記念公園(大阪府吹田市)」で行われていた「万博鉄道まつり2024」。

会場で出展されていた「大阪モノレール」特設ブースで、東大阪市方面への南伸事業についての質問を、社員さんにさせて頂くことが出来ました。万博記念公園にて。


前回に引き続き、質問させて頂いた内容について触れてまいりたいと思います。


①「仮称・鴻池新田駅」付近の駅舎工事予定

②「河内寺島東交差点」付近の他と違う支柱

③「河内三島東交差点」付近の半年以上工事が進まない支柱基礎

④「仮称・瓜生堂駅」付近の進捗状況

⑤「モノレール仮称・鴻池新田駅」から「JR鴻池新田駅」への連絡通路はどうなるです。



それでは今日は、

④「仮称・瓜生堂駅」付近の進捗状況 から。大阪モノレールホームページより。




「仮称・瓜生堂駅」は東大阪市方面への南伸予定区間の終着駅です。


「府道大阪中央環状線(中環)」と「近畿自動車道(近畿道)」に沿っているのは定点観測をしている「仮称・鴻池新田駅」付近と同じで、東西に走る「近鉄奈良線」と直交する地点に、近鉄共々新駅が設置されることになっています。



さらに、本線の高架の西側には「万博記念公園駅」付近にある車両基地を補完する目的で、あらたに「瓜生堂車両基地(仮称)」が併設される計画です。


基地は、南北の縦に約1kmほどになりましょうか。大規模な施設になるようで、それゆえにこの地点の工事は、なかなか複雑なようです。


 
ところで今年4月末に突如、モノレールの南伸事業の開業予定事業が4年ほど延期になる、という衝撃的なニュースが飛び込んで来ました。

関西テレビ(フジテレビ系列)「newsランナー」2024(令和6)年4月27日放送より。



その最大の理由というのが、この「仮称・瓜生堂駅」付近が想定を超えるほどの軟弱地盤で、駅舎などの建築工法を変更せざるを得ない、ということなのでした。




さらに、昨今の建設業界のさまざまな事情も重なり、事業費も約650億円ほど上振れするというので、大変気を揉んでいたのでした。NHK大阪ローカル「NEWS関西845」同日放送より。 

結局、事業見直しはなされることもなく、南伸事業は続行されることになりました。2024(令和6)年5月5日アップ。こちらもどうぞ↑


これについて伺うと、当初の予定よりはやはり遅延してはいるが、あらたな計画のもと、軟弱地盤対策は確実に安全に行えるよう作業を進めています、とのこと。安心しました。

「仮称・瓜生堂駅」付近にて。開削している鉄骨支えの部分が、車両基地の予定地です。


さて、モノレールのブースを訪問した際にこのようなリーフレットも頂戴しました。

「(仮称)瓜生堂車両基地整備に伴う西岩田遺跡発掘調査」という題目のもの。


車両基地と、新駅が設置される瓜生堂周辺には西岩田遺跡という、古墳時代から奈良時代にかけて居住していた人々の村がこのあたりにあったことでも知られています。



都合、いまから1300〜1500年ほど前にはすでに人が生活を営んでいたということ。これは府下でも最も古い事例になるようです。



その西岩田遺跡、つまり瓜生堂周辺はその時代には「河内湖」という、大阪湾の奥手に広がる汽水湖の南東端でした。大阪湾自体も、かなり内陸部まで入り組んでいることに驚きます。


そこから長年をかけて、干拓や埋め立て、大和川の切り替え、などの開発が実に江戸時代半ば過ぎまで続きました。そういったことで、このあたりが完全な陸地と化したのは、比較的最近のことだという。



ロマンのある話しですが、地盤の緩いということはやはりもともとこのあたりが湖、さらにそれ以前は生駒山地のぎりぎりにまで大阪湾が広がっていたことの証。


地元では知られた歴史なのですが、そうなるとこのような遺跡はまだ他にもありそうです。



ところで、ただいま中断している「東大阪市民美術センター」で開催されていた特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン」を訪問した際の見聞録。この展示にも、それと関係のあるものがあったことを思い出しました。


これです。「大阪中央環状線と奈良線の立体交差工事竣工」という、事業記録のリーフレット。




中環と近畿道は先の「大阪万博(1970年)」開催を期して開業させたものでしたが、かつてその予定地は、街外れの田畑ばかりが広がるところでした。1966(昭和41)年秋、双方の工事が着工された頃。交点から北を望んたものでしょうか、ひなびた風景です。


それゆえあれほどの幅のある敷地面積の道路を作ることが出来た訳ですが、その道路予定地を地平で東西に横切る「近鉄奈良線」が高架化されたのは、万博開幕半年前の1969(昭和44)年9月のこと。出典①。




近鉄を高架化する際にも、地盤や遺跡群の調査をしているはず、ですが、半世紀以上前に地盤の具合はわかっていたはずなので、最近になってモノレールの件で問題になる、というのは…失礼いたしました。出典②。


しかし、そういった以上はしっかり安全対策を施して、開業させてほしいものだと願います。1969(昭和44)年9月、近鉄が高架化された直後の「八戸ノ里駅」付近を俯瞰する。



さて、最後に残ったのは⑤「モノレール仮称・鴻池新田駅」から「JR鴻池新田駅」への連絡通路はどうなる

実は、これがいちばん気になっていたことなのでした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「近鉄80年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1990年10月)
(出典②「近畿日本鉄道創業70周年記念 最近20年のあゆみ」近畿日本鉄道編・発行 1980年10月)