特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン」訪問記〜その16 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。



おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。



大正初期に開業した、当時としては破格の距離全長3,388mを誇った「生駒トンネル」や、最初の車両に取り付けられていたという名物の駅名表示幕など、貴重な展示を拝見して来ました。


まだまだ続く次の展示は「第2章 奈良線を走った車両デザインの変遷」。

現在の「近鉄奈良線」を1914(大正3)年に開業させたのは「大阪電気軌道(大軌)」という会社。これが近鉄の母体会社と言われます。


ところで、明治末期から大正にかけて、都市部で次々と登場したのが「路面電車規格の電気軌道」。「軌道法」という、鉄道省ではなく、内務省が管轄する法律に基づいたものでした。


明治初期に、蒸気機関車で開業した南海を除く関西大手私鉄の多くはそれを準拠にして開業していますが、大軌もその一例でした。

実は「軌道法」は「軌道の一部でも道路にかかっていれば良い」という解釈だったので、併用軌道(道路と線路を共用)は一部のみで、大部分は専用軌道(線路のみが敷設されたもの)とした例が主でした。


国営鉄道(→国鉄→JR)を管轄する鉄道省は、自らの路線と並行する鉄道の計画には難色を示したといいますが、それに「軌道法」が適用されると、次々に許認可された経緯があります。

「関西本線」や「学研都市線(片町線)」が存在していた大阪〜奈良間に大軌が1914(大正3)年に開業出来たのも、そのような考え方に基づいた許認可がなされたひとつの例だった、と考えられます。開業当初に登場した「デボ1形」。


当時、高速運行の長距離列車は非電化(蒸気機関車)の国営鉄道、路面電車規格でスピードを出さない電気軌道は民営と、比較的そのような棲み分けがなされていたのでした。


しかしながら昭和期に入ってからは、軌道法に基づく路面電車規格の鉄道も大きく近代化を遂げ、今日に至ります。

丸っこい5枚窓の「デボ1形」「デボ61形」とはまったく異なるデザインの「デボ301形」。路面電車とは一線を画した、都市部と郊外とを結ぶような、現在の電車に少しずつ近づいて来たことがわかります。



奈良線では戦後に入り、沿線の開発とともに利用客が激増。車両の増結や大型化が急務になりましたが、府県境の「生駒トンネル」が小型なために車両の大型化が難しかった、という経過は先日項でも触れました。

大軌時代の1935(昭和10)年に製造されたこの「デボ600形」は、奈良線の主力車両。小型車両ながら、増結を重ねながら活躍します。



輸送力改善が難しい中、高性能・軽量設計で車両規格をぎりぎりにまで拡大した車両も製造されました。昭和20〜30年代、全国的に大ブームとなった湘南顔(大型2枚窓)で1955(昭和30)年に登場した、この「800系」。

奈良線特急として華々しくデビューし、近鉄通勤型車両の近代化の幕を切って下ろします。



そして、奈良線輸送力改善最大の事業となった「新生駒トンネル(3,494m)」が1964(昭和39)年7月に開業。残工事の完了した10月には奈良線全線で、現在の大型規格の車両が運行出来るようになります。

そのシンボルとなったのが、この「900系」。
4枚扉・車長20m級という、今日、見慣れた近鉄電車の始祖のひとつがこれでした。「新生駒トンネル」を生駒方に抜けた、特急列車。






その後は次々と大型車両が投入されることに。

こうして、奈良線は関西私鉄の中でも屈指の大幹線と成長して行ったのでした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。