企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」千里ニュータウンを訪れる〜その45 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。




先の大阪万博輸送を担った「北大阪急行(北急)〜大阪市営地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」と「阪急千里線〜京都本線・同堺筋線」という、二大鉄道アクセス。


加えて、当時の国鉄をはじめとした観客輸送のために整備された交通事情について、手元の「国鉄監修 交通公社の時刻表 1970年8月号」からさまざま拾ってみることにいたします。


表紙には夜の万博会場。
輝くネオンが実に印象に残りますが、会場は22時半まで営業していたのだとのこと。えらいゆっくりな時間までですが、最後まで残っていた観客は、みんな無事に帰れたのでしょうか。

当時はいまほど宿泊施設もなかったでしょうしはなはだ、余計なお世話ですが(汗)


さて、手元の時刻表は8月号です。
夏、海・山・万国博!という文句を見るだけで、当時生まれてもいなかったわたしでも、わくわくして仕方がありません。

臨時列車も大増発とは、夏のレジャーにおいて鉄道がいちばんの主役だった、良き時代だったのですね。



さて、時刻表の内容を探ってみましょう。

開幕から4ヶ月あまりが経過し、最初で最後の夏を迎えた、先の大阪万博。そのガイドには、かなりのページが割かれています。


ところで、万博会場周辺の鉄道路線図を眺めていて気付いたのですが、会場から3kmほど東の「国鉄(現在のJR)茨木駅(大阪府茨木市)」 に「万博東口駅」という副名称が付けられているではないですか。


「茨木駅」は「東海道本線(現在のJR京都線)」の駅。この頃すでに「東海道新幹線」が開業しており、在来線の長距離列車はだいぶ減っていたとはいえ、会場の至近に本線級の駅がある意味合いは大きかったようです。出典①。



国鉄はここを万博輸送の拠点に位置づけ、近隣の「阪急茨木市駅・南茨木駅(同)」間とともに、阪急・京阪・近鉄バスによるピストン輸送を行っていました。

いずれも行き先は「万博東口ゲート」
旧塗装の近鉄バスが懐かしい!小さい頃、身近でよく見かけ、親に連れられ姉と乗ったもの。


それから20年後の1990(平成2)年、大阪・鶴見緑地で開催された「花の万博(国際花と緑の博覧会、EXPO'90)」でも同様に、シャトルバスという形で鉄道駅と会場間とで頻発運行がなされました。右端には阪急バス。以上、出典②。


「会場東口ゲート」付近の様子。

リニアモーターカーなど、最先端を駆使した展示が人気を博したという「日本館」の近くでした。丸い形の五つのデザインは、万博のシンボルマークでもある、桜の花びらを模したもの。左下には「鉄鋼館」。出典①。


現在の様子。当時の中央口、西口と同様にやはりここも「万博記念公園自然文化園 東口」になっています。グーグル地図より。

「万博記念公園駅(同吹田市)」から「彩都西駅(同茨木市)」へ分岐している「モノレール彩都線 公園東口駅(同吹田市)」が最寄り。


ちなみに、日本館の左下(南西側)にあった「鉄鋼館」は、現在「EXPO70パビリオン」になっています。


万博会期中にはもちろんパビリオンのひとつでしたが、閉幕後も保存する予定だったため、半世紀以上経過したいまも、そのままの姿です。




内部には音響設備を設けたホールがあり、音楽イベントなどが主に行われていたそうですが、現在は、先の大阪万博全般に関する展示が多数なされている、記念館です。


別館には、初代「太陽の塔」を飾っていた黄金の顔も展示されています。

万博会期中、そして平成まで、観客を見守って来たもの。すごい迫力でした。余談でした。


次回に続きます。
今日はこんなところです。

(出典①「日本万国博覧会公式記録写真集」日本万国博覧会協会発行 昭和46年10月)
(出典②「近畿日本鉄道80年のあゆみ」近畿日本鉄道発行 平成2年10月)