みなさんこんにちは。前回からの続きです。1970(昭和45)年開催の「大阪万博」で活躍した、万博を巡る千里の鉄道を中心にした交通機関についての企画展「振り返ろう懐かしの千里万博の時代」訪問記をお送りしています。
さらに、次回に続きます。
今回の企画展展示の主題、千里丘陵で開催された先の「大阪万博」会場に直結していた「北大阪急行電鉄(北急)〜地下鉄(現在のOsakaMetro)御堂筋線」ルートについて、あれこれと項を進めています。
会期中に約2000万人以上を運んだという、このメインルート。企画展での写真展示とともに、新大阪駅から実際にこの万博会場へのルートを辿り、引き続きあれこれと掘り下げてみようと思います。出典①。
さてようやく「万国博中央口駅(大阪府吹田市)」に到着。前回記事でも触れましたが、駅名の通り、万博会場中央ゲートに直結していたという、まさに「万博の正面玄関」でした。
三角形の巨大な屋根が特徴的なこの駅。
乗り入れている「北急会場線」や「中国自動車道(中国道)」「府道大阪中央環状線(中環)」が掘割様であったのに対して、台地上にあった会場の南北をつなぐ、連絡通路の役割も果たしていました。出典②。
ここまで幾度となく触れてまいりましたが、観客を輸送するために、千里中央からは建設中の「中国道上り線」を借用して線路や駅舎が建設されたという、異例のことでした。出典③。
「南北線および会場線開通について」という、北急が開業時にまとめたこの資料でした。
はじめて見るものです。「南北線」は現在、わたしたちが乗ることが出来る「江坂〜千里中央間」を指します。ちょっと拝見してみましょう。
ショーケース内で開かれていたページは、まさにこの「万国博中央口駅」にまつわる詳細な諸元。
地上に仮設だった「千里中央駅(大阪府豊中市)」から、間借りした中国道を約3.5km走って来た列車が、入構しようというところ。
駅手前で、両渡りポイントを通過して…
プラットフォームに差し掛かります。
ホームの千里中央方、このあたりです。後方に見える陸橋は、いまも現存。
プラットフォームは、中央部分が膨らんだ形状だとわかります。
上新田(かみしんでん、千里中央駅の仮称)起点からは、この駅は3㌔621㍍400㌢地点。
先日のこの記事で取り上げた「千里中央駅」南側の地下線内で分岐するトンネル。ここが「上新田起点」です。
そして、東端に至ります。
留置線に並ぶ2列車の手前は北急車両、奥は市営地下鉄車両。しかし、2〜3分おきの発車といいますから、運転士さんと車掌さんの入れ替えも大変だったはず。
さらにこれを引きますと、東端の車止めはこのあたり。線路南側ではエキスポランド名物「ダイダラザウルス」の真横、北側の本会場でも東の端になるところ。会場の広さを感じます。
返す返すですが、趣向を凝らしたさまざまな色や形の、立ち並ぶ数々のパビリオンや展示館。
この時に生まれておればなあ…と、つくづく思います。70年代も終わりに生まれた身としては仕方ないこと、なんですが(汗)
今日はこんなところです。出典①。
(出典①「日本万国博覧会公式記録写真集」日本万国博覧会協会発行 昭和46年10月)
(出典②「鉄道伝説 大阪万博波動輸送〜2200万人の輸送を成功させよ〜」BSフジ 2014年2月2日放送)
(出典③「日本万国博覧会記念写真集」日本万国博覧会協会監修・万国博グラフ社発行 昭和45年10月)